御使いの花方は、月の末ごろ、屋島から都へ帰って来た。 ──
屋島の返答やいかに、と待ちに待たれていたところである。その日、殿上にあった諸卿は、手ずからそれを披
き見給う法皇のみけしきを、かたずをのんで、仰ぎあった。 宗盛の返書は、長文であった。 しかしそれは、逆に、平家の立場から、院の非行を責めた詰問きつもん
の書といってもよいほど、激越げきえつ
な文面のものであった。 まず、神器奉還のことでは。
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── 平家にも、正しい天子があるのである。天子のおられる所、神器は一日も離すことは出来ない。 また、平和は、もとより望むところであるが、平氏も源氏も、ともに公平な立場におかれて議すべきで、平家から神器を取り上げ、平家の足腰を挫くじ
いて、しかる後に、押し付けの和を講じようとするような御態度には、断じて、服し難い。たとえわれらが忍ぼうとしても、全平家の武者が承服せぬ。 なぜかといえば、これは、さきに生田、一ノ谷の合戦の直前に、院が、平家をあざむき給うた奸計かんけい
の結果である。──
わざわざ院臣の親信を下向せしめて、源氏へも平家へも、ともに、休戦あるべき由を、沙汰触れされたため、合戦の朝までも、平家は、御諚ごじょう
を畏かしこ
み奉って、戦はないものと、弓の弦つる
も外はず
していた。 しかるになんぞや、突然、源氏の襲撃ではないか。平家の軍兵は、無数に討たれ、あえなき敗北に、無念をのんで、屋島へ引っ返すの余儀なきはめとなったのである これみな、院の詭謀きぼう
、院宣の悪用というべきで、希代きたい
な怪事といわねばならぬ。 おりもおり、その数日前は、故入道清盛殿の忌日にあたり、仏事の営みすら、陸地くがじ
になしえず、幼き主上も船上に安らぎ給わぬような中で、そんな憂き目にあわされたのである。われら以下、軍兵どもの怨みは、骨髄に徹しており、到底、仰せ下しには服し難い。神器を差し上げて、じつは、降伏も同様な屈辱に忍べとは、いかに勅とて、余りにも道理のない沙汰である。断じて服従し奉るわけにはまいらぬ
──。 |
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というような内容であった。後白河のお手がかすかに震えていた。お唇くちびる
をかんで 「・・・・よし」
と、胸のうちで言っておられるような、みけしきだった。 そして、重衡の中将に対しては、屋島からの返書もなかったし、また法皇も、それきり何も仰せはなかった。 ──
結ばれるかとみえた一縷いちる
の糸は、ついに切れた。 都と屋島、源氏と平家は、永劫えいごう
、二つの地界になった。しかも、こにことの前に、それをすでに断ち切っていたものは、たれでもない、法皇御自身ではないかと、“屋島返書”
は言うのである。 その痛烈な語気や文辞の底に見える決意は、到底、内府宗盛のよくいえるところではない。筆は宗盛でも、おそらくは新中納言知盛や平大納言らの意見によって書かれたものと思われた。
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