首渡しの行われた翌十四日には、生捕人
の本三位中将ほんざんみのちゅうじょう重衡しげひら
が、都大路を引きまわされた。 重衡の身は、前日まで、 「院の御命を相待つべし」 とあって、羅生門外の一民家に、きびしく監禁されていたが、同日、土肥実平が、沙汰書さたしょ
をたずさえて来て、 「お心はすすむまいが、洛中の御宿所も定められ申した。いで、罷まか
られよ」 と、車をすすめ、守護の兵を、敷き並べたものだった。 「大儀です」 重衡しげひら
は、悪びれもせず、すぐ沓くつ
をはいて、車へ近づいた。 いつ、どんな所に置かれても、この人は、身だしなみを怠ったことがない。この日も、薄化粧さわやかに、与えられた小八葉こはちよう
の牛車くるま に乗った。 わざと、車の前後の簾を揚げ、左右の物見
(小窓) も開いてある。 往来の人びとの眼にさらさせるためであることは言うまでもない。 土肥次郎実平は、木蘭地もくらんじ
の直垂に、小具足姿で、騎馬だった。徒士かち
数十人に車を囲ませ、 「それ、牛を打て」 と、羅生門から洛中へ引き入れた。 朱雀すざく
から、七条、五条、そして河原の辺りまでも、男女の人垣がたえなかった。 「あな、いとおし、変わり果てたお姿よ」 という者もあり、 「どうして、この君ひとりだけが、生捕いけど
られて、都の中に、生き恥をさらし給うのか」 と、重衡の心を疑って、くちおしげに見るのもある。 とにかく、衆口はさまざまである。ゆい昨日、一門の首渡しを見ていた人びとだけに、重衡への同情はまったくなく、いとど冷たい眼で見られた。 「なんと、もの欲しげな人の薄ら寒げなお命かな」 と、わざと、小八葉こはちよう
の車の内へ、聞こえよがしに言い放つ者さえあった。 いや、それらは、まだよい方で、車が、六条坊門の辻を西へ引っ返して来ようとすると、バラバラと、どこからともなく、石つぶてが飛んで来た。 実平は、驚いて、 「しゃつ、何をするか」 と、群集の一角を、にらみつけた。 人垣の中に隠れて、小石を拾いぬいていた法師どもは、彼の一喝いっかつ
に、影をひそめたが、同様なことは、行く先々で起こった。 土を投げ、草鞋わらじ
を投げ込み、中には、車へ唾つば
して逃げ去る者もある。 それが、多くは、僧侶そうりょ
なのだ。 彼らが、口々にののしるのを聞けば、治承四年の冬、西八条が奈良攻めを断行したさい、東大寺の大仏殿を焼き、数千の僧俗を殺したときの大将こそは、今日の捕虜ほりょ
、中将重衡ではないか。 重衡の中将こそは、引きまわしはおろか、八ツ裂き、鋸引のこぎりび
きにしても、あお飽きたらない仏教の敵、魔軍の張本人である、というのであった。 「さては、積年の怨うら
みか」 土肥実平すら、慄然りつぜん
とした。途中で初めて、それに思い至ったのである。 それのしても今、平家への復讐ふくしゅう
と、辱はずかし めとを、身ひとつに集めて、都大路を白昼、さらし者にされて行く重衡の心はどんなか。 おなじ、もののふとして、実平は思いやらずにはいられない。 実平は、そっと、重衡の横顔をながめた。 しかし、車の内の人は、ほとんど、それに感情を揺られていないかのように静かであった。石つぶてに触れたのだろうか、蒼白そうはく
な横顔の耳から下の辺に血がすこし滴たれ
れて見える。そのほか、姿の線は、どこも崩れてはいなかった。平常の人のままであった。 「やよ、大事な預かり人びと
、怪我さすな者ども」 実平は、自身の駒こま
を、車の横へつけて、余りな辱しめや、無法な人びとの狼藉ろうぜき
を防ぎながら、大路を渡した。 |