〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻
2013/12/27 (金) くび わた し (二)
なにしろその日の洛中は名状し難い光景だった。
おびただしい見物の人出もさることながら、平家一門の名だたる大将や公達ばかり十人の首が、白日はくじつ の下、武者のほこ 先に突き抜かれて、都大路を渡され、やがて獄門に けられるのである、どんな心ない者でも、
「ああ」
と、人の世のはかなさを、いやというほど、思い知らされずにはいられなかった。
首には、一々、赤簡あかふだ が付けられてあり、その名を読めば、なおさら、その人びとの心ばえや、衣冠華やかなりし昨日も偲ばれる。
真っ先には、越前三位えちぜんのさんみ 通盛みちもり 、次に、薩摩守さつまのかみ 忠度ただのり能登守のとのかみ 教経のりつね
そのほか、越中前司、皇后宮亮経正、小松こまつ 師盛もろもり無官大夫むかんのたいふ 敦盛あつもり 、若狭守経俊、知盛の子知章ともあきら 、教盛の子業盛なりもり ── など十人の首級だった。
しかし、以上十人の内、能登守のとのかみ 教経のりつね とあった首は、
「はて?」
群集の中で、怪しむ者が多かった。
「あれは、能登殿ではない」
「教経殿とはお年ごろも違う」
どうした間違いか、事実、それは能登守ではなかったのである。全くの別人の物であることがほどなく分かった。そのため、首渡しの途中から赤簡あかふだ を取り けられ、さらくび は九ツに減った。
こうした珍事もあったりして、行列を見る万余の群集は、時には笑ったり騒いだりもしたが、しかし大部分の表情は、木曾殿の首渡しを見た日とは違って、どこかに悲しげな傷みをたたえていた。
木曾は外からの侵略者であり、平家は根からの都人みやこびと であった。木曾軍には、恐怖の思い出しかないが、平家の二十余年間には、今かえりみても、悪いことばかりではなかった。 「もう、あんな陽気で平和な日は、二度と来るかどうか」 と思われる良い月日もあったのだし、通盛みちもり忠度ただのり経正つねまさ敦盛あつもり ── といったような人びとの首級へも、民衆にはなんのうら みも抱けないのである。むしろ 「武門のさだめのむご さよ」 と、憐れをそそられずにいられなかった。
まして、無数な見物の中には、むかし、平家一門に出入りしていた者もあろうし、都の片隅に潜んでいた一族妻子も多かったに違いない。
たとえば、小松中将こまつちゅうじょう 維盛これもり の北ノ方なども、幼子を抱えて、さる寺内に隠れていたが、この日、家来の斎藤五、斎藤六の二人を見せにやって、さて、戻って来た二人の下僕しもべ に、
「わが良人つま のお首は?」
と、たずねたところ、維盛卿のお首は見えませんでしたとの答えに、よろこぶかと思いのほか、北ノ方は、袖を引きかず いて 「── それも、人の身の上とは思われぬ」 と、一日中、泣いておられたということである。
また、かの熊谷直実の手にかかった無官大夫敦盛の首なども、よそながら、人びとの涙に弔われていたことであろう。彼の恋人の、右大弁どのの姫君は、どこに泣きこも っていたことか。あるいは、被衣かずき まぶかにまゆかく して、その日の群集の内にでも立ち交じっていたか、どうか。
薩摩守さつまのかみ 忠度ただのり にも、さる宮の女房との間に、秘めたちぎ りがあったという。そのほかの公達きんだち にも、いずれは、恋もあり、見飽かぬ夢も、この都には多かったに違いない。それかあらぬか、市女笠いちめがさ被衣かずきろう やかな女性の忍び姿も群集の中にたくさん見えた。そして、それらの女房たちが、人知れず袂をしぼる紅涙こうるい や心の波に揺れにお う有様も、木曾の首渡しの日とは、まったく違う情景であった。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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