なにしろその日の洛中は名状し難い光景だった。 おびただしい見物の人出もさることながら、平家一門の名だたる大将や公達ばかり十人の首が、白日
の下、武者の矛ほこ 先に突き抜かれて、都大路を渡され、やがて獄門に懸か
けられるのである、どんな心ない者でも、 「ああ」 と、人の世のはかなさを、いやというほど、思い知らされずにはいられなかった。 首には、一々、赤簡あかふだ
が付けられてあり、その名を読めば、なおさら、その人びとの心ばえや、衣冠華やかなりし昨日も偲ばれる。 真っ先には、越前三位えちぜんのさんみ
通盛みちもり 、次に、薩摩守さつまのかみ
忠度ただのり 、能登守のとのかみ
教経のりつね 。 そのほか、越中前司、皇后宮亮経正、小松こまつ
師盛もろもり 、無官大夫むかんのたいふ
敦盛あつもり 、若狭守経俊、知盛の子知章ともあきら
、教盛の子業盛なりもり ──
など十人の首級だった。 しかし、以上十人の内、能登守のとのかみ
教経のりつね とあった首は、 「はて?」 群集の中で、怪しむ者が多かった。 「あれは、能登殿ではない」 「教経殿とはお年ごろも違う」 どうした間違いか、事実、それは能登守ではなかったのである。全くの別人の物であることがほどなく分かった。そのため、首渡しの途中から赤簡あかふだ
を取り除の けられ、曝さら
し首くび は九ツに減った。 こうした珍事もあったりして、行列を見る万余の群集は、時には笑ったり騒いだりもしたが、しかし大部分の表情は、木曾殿の首渡しを見た日とは違って、どこかに悲しげな傷みをたたえていた。 木曾は外からの侵略者であり、平家は根からの都人みやこびと
であった。木曾軍には、恐怖の思い出しかないが、平家の二十余年間には、今かえりみても、悪いことばかりではなかった。 「もう、あんな陽気で平和な日は、二度と来るかどうか」
と思われる良い月日もあったのだし、通盛みちもり
、忠度ただのり 、経正つねまさ
、敦盛あつもり ── といったような人びとの首級へも、民衆にはなんの怨うら
みも抱けないのである。むしろ 「武門のさだめの酷むご
さよ」 と、憐れをそそられずにいられなかった。 まして、無数な見物の中には、むかし、平家一門に出入りしていた者もあろうし、都の片隅に潜んでいた一族妻子も多かったに違いない。 たとえば、小松中将こまつちゅうじょう
維盛これもり の北ノ方なども、幼子を抱えて、さる寺内に隠れていたが、この日、家来の斎藤五、斎藤六の二人を見せにやって、さて、戻って来た二人の下僕しもべ
に、 「わが良人つま のお首は?」 と、たずねたところ、維盛卿のお首は見えませんでしたとの答えに、よろこぶかと思いのほか、北ノ方は、袖を引き被かず
いて 「── それも、人の身の上とは思われぬ」 と、一日中、泣いておられたということである。 また、かの熊谷直実の手にかかった無官大夫敦盛の首なども、よそながら、人びとの涙に弔われていたことであろう。彼の恋人の、右大弁どのの姫君は、どこに泣き籠こも
っていたことか。あるいは、被衣かずき
まぶかに黛まゆ を秘かく
して、その日の群集の内にでも立ち交じっていたか、どうか。 薩摩守さつまのかみ
忠度ただのり にも、さる宮の女房との間に、秘めた契ちぎ
りがあったという。そのほかの公達きんだち
にも、いずれは、恋もあり、見飽かぬ夢も、この都には多かったに違いない。それかあらぬか、市女笠いちめがさ
や被衣かずき の臈ろう
やかな女性の忍び姿も群集の中にたくさん見えた。そして、それらの女房たちが、人知れず袂をしぼる紅涙こうるい
や心の波に揺れ匂にお う有様も、木曾の首渡しの日とは、まったく違う情景であった。 |
|