都の色は、一変した感じである。 季節は草萌
え時だし、凱旋がいせん の兵馬は、おりふし、陽気な春風をもたらした。上下の、どこで見る顔にも
「── 長い冬だった」 と、いう感慨が包まれている。 「飢饉ききん
も三年続いた。もう今年あたりは、物も実みの
ろう」 「戦も、都の内ではもうあるまい。群盗放火は、言うまでもないが、木曾殿の世ごろのような、武者威張りの世間も、二度とは、見たくないものだ」 人心にも、季節があった。その自然なる待望が、範頼、義経たちの凱旋の旗に向かって、当然な歓呼を揚げさせたものといってよい。 もちろん、院の御所でも、両大将以下、殊勲の人びとへは、坪の内で、親しく、おん犒ねぎら
いの儀があるなど、沸くごとき光景を見せたが、しかし、公卿のうちには、平家と縁故の深い者もあることだし、それに、法皇御自身の口からも、 「戦には勝ったようなものの、ついに三種の神器は還かえ
らなかったか」 という御不満ももれたりして、底流には、あるさびしさと、複雑な何かをまだ残していた。 とはいえ、それらの機微までは、武者たちのあずかり知ることではない。彼らは、それぞれ、洛中らくちゅう
の館や小屋敷に、兵馬を休め、そして、 「今日ばかりは、打ちくつろいで飲め。ぞんぶん、飲むも騒ぐもよしとの、みゆるしなるぞ」 と、それらの門ごとに、邸内からのさんざめきを、往来までもらしていた。 だが、こういう陽気な風景の次に、すぐ人びとが眼に見たものは、例の
“首渡し” という陰惨な儀式の行列だった。 今度の場合も、前の義仲の時のように “首渡し” をすべきか否かということでは、院中でも議論があった。 平家嫌いの九条兼実すらも、 「木曾と平家とは、大いに違う。ともあれ平家は昨日まで皇室の外戚がいせき
であった一門。かつはまた、三種の神器も、なお彼らの手中にあるのに、しいて、彼らの怨うら
みを深めるようなことは、いかがであろうか」 とする意見であった。 後白河にも、 「もっともな言」 と、御同意にみえた。 けれど、これが源氏方の凱旋将士に、おそらく受け入れられないことも、聡明そうめい
な後白河には充分わかっておいでだった。 なぜなら、頼朝、範頼、義経たちの父、源義朝は、平治ノ乱後、首を東獄とうごく
の門に曝さら されている。しかも遺子や遺臣たちの、それからの忍従と苦労は、どれほどだったろう。 平家一門はみな身分の高い者ゆえ、曝し者には出来ない、というのでは、源氏側は承知しまい。──
そう考えられれ来るのであった。 果たして、この内沙汰が伝わると、凱旋軍の間には、ごうごうたる不満の声が起こった。院議はたちまち一変し、首渡し決行と決まったのである。
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