〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻
2013/12/22 (日) ろう  しゅう (三)

名ばかりか、敦盛の末期まつご の一語も、それでなぞご は解けたのである。しかし、そのため熊谷が明るくなる理由は何もなかった。むしろ彼の胸は、なおさらたの しめない何かにふさ がれつづけていた。
「ああ、武門の身とは、いやなもの、むごいもの」
それ以来、人に愚直といわれる彼に、一そう、そうした割り切れない思いから来るにぶ い影が重なった。
その悩みを、少しでも慰めようとする自責の現われにちがいない。彼は、義経に願って、敦盛に首を包んだよろい の袖と、小枝さえだ の笛とを、請い受けた。
そして、敦盛の父、参議経盛の行方を探させたところ、経盛を乗せた一船は、敗戦の日、淡路島へ落ち、その後も、淡路の福良に潜んでいるという便りを得たので、自身の郎党に、かたみの二品を持たせ、それに、一書を添うべく、筆をとって、

── われも人の子の親にて候ふものを、なんぞや、親ある人の子を討ち候ひぬ。敵味方とは、現世のかりそめ事、宿世すくせ になんの恩怨おんゑん や候はん。親御のいん歎きも、さこそと思ふにつけ、われも親、人の身ならぬ心地に打ちのめされはべ るにて候ふなり。
愚情愚痴の沙汰は、おんわら ひあるべくも、夜のつる の子が、形見の鶴の御袖と、笛とを、わざと送りまゐらせ候ひぬ。
あはれ、親御の手もて、親しうおん弔ひをなし給はらば、健気けなげ なる乙子おとご の君にも、いかばかりうれ しう思し召すらんと、かたき の身ながらねが ひ奉るにて候ふなり。
南無阿弥陀仏まむあみだぶつ                         愚夫直実
と、したためた。
彼の郎党は、さっそく、淡路の福良へ小舟を向けた。そして、親しく参議経盛に会って、主人の意のあるところを告げ、また、敦盛の最期さいご の様子を、つぶさに、父なるその人へ物語った。
「ありがたき人に情けかな。そのような侍の手に討たれしは、せめて、わが乙子おとご が倖せと申すもの」
と言って、涙ながら経盛も熊谷の好意を心からよろこんだという。
後に、敦盛の小袖こそで は、福良の磯で荼毘だび (火葬) に附され、形見の笛は、有縁うえんび の寺へ送られたととも言い伝えられている。
こうした戦陣余話、人と人の個々がえがく種々相には、なお幾多の悲話を、裏面に生んでいたに違いない。
けれど二月七日の、わずか半日の間に終わった激戦は、まるで、颱風たいふう 一過と言ってよかった。人間個々のさまざまな感情もきずな も、ことごとく、風の行方とともに き去って、べつに、時勢は時勢として、あすへと大きくめぐ っている。
── 数日の後。
軍は、晴れの凱旋がいせん となり、範頼、義経の全軍は、その日の天地を、わがもの顔のどよめきだった。
「さだめし、都の人びとも、都門ともん堵列とれつ し、われら戦捷せんしょう の軍を、待ち迎うことならん」
とは、いわず語らず、源軍将士の顔のすべてに見える誇りだった。
だが、そんな中でさえ、熊谷直実一人は、どこか、にぶい面色だった。黙々と、ただ行軍に して行くに過ぎない。そして行軍の流れが、宇奈五うばごおかご の下にかかると、彼の一小隊だけは、長い列から抜けて、道の端にとど まった。
まもなく、熊谷一人が、そこの岡の道を、重い足つきで、登って行くのが見える ──。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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