名ばかりか、敦盛の末期
の一語も、それで謎なぞご は解けたのである。しかし、そのため熊谷が明るくなる理由は何もなかった。むしろ彼の胸は、なおさら愉たの
しめない何かに塞ふさ がれつづけていた。 「ああ、武門の身とは、いやなもの、むごいもの」 それ以来、人に愚直といわれる彼に、一そう、そうした割り切れない思いから来る鈍にぶ
い影が重なった。 その悩みを、少しでも慰めようとする自責の現われにちがいない。彼は、義経に願って、敦盛に首を包んだ鎧よろい
の袖と、小枝さえだ の笛とを、請い受けた。 そして、敦盛の父、参議経盛の行方を探させたところ、経盛を乗せた一船は、敗戦の日、淡路島へ落ち、その後も、淡路の福良に潜んでいるという便りを得たので、自身の郎党に、かたみの二品を持たせ、それに、一書を添うべく、筆をとって、 |