義経は、ひそかに、重衡へ、同情をよせていた。 庄ノ三郎忠家に捕われて、源氏の陣所へ引かれて来たときは、単に、
「可惜 、一門の名だたるお人にありながら、命惜しみて、生き恥をさらし給うものかな」
と、蔑さげす まれただけのものだったが、その挙止きょし
や言語など、人柄に接しているうちに、 「さすがは、平相国へいしょうこく
の五男の君」 と、ゆかしく見られ、 「何か、心に期するところがあって、生き恥はじ
にも耐えんと、捕われたものではないか」 と、思われるふしもあった。 扱いのうえに、宥いたわ
りを示すばかりでなく、義経は、親しく重衡の幽所を訪うて、何かと、私的な話なども交えて、その牢愁ろうしゅう
を慰めていたのである。 重衡も、この人の温情を深く徳としたにちがいない。義経から、敦盛の首を見せられて、そのたれなるかを、問われれば、正直にすぐ涙の瞼まぶた
となって、 「こはこれ、わが叔父にあたる参議経盛卿の乙子おとご
(末子) にて、無官大夫むかんのたいふ
敦盛あつもり に相違なし、添えたる遺物かたみ
の笛は、日ごろより肌身に持ちて愛め
でいたる “小枝さえだ ” と銘のある笛にや候わん」 と、答えた。 実は義経も
「あつもりの君か?」 とは、うすうす、感じていたのである。けれど、都の夜の辻で、しかも女房衣を打被うちかず
いていた姿をただ一度、路傍で見ただけの記憶なので、念のため、糺ただ
してみたものであった。 ── で、それらの記憶や、重衡の言葉を、その夜、小酒盛の間に、彼が熊谷に話してやると、熊谷も小ひざを打って、こう言った。 「さてこそ、思い出さるる一儀がございまする。──
さるお人とも知らず、それがしが、敦盛卿を組み敷いて、お首をかかんといたしたとき、刃の下にて ── なんじは九郎の殿の家来か、義経殿の手勢に討たるるならば本望なれ
── と、末期まつご の声で申されましたが」 「なに。・・・・本望と?」 「はい」 「では、敦盛卿にも、ひそかに、わが名を、心に抱いていたのであろうか」 「と、みえまする」 「右大弁うだいべん
殿どの の姫ぎみの許へ忍ばれた夜、おりふし、義経の眼にかかり、平家の公卿とは分かっていたが、捕えても何かせんと、わざと逃がしてやったが・・・・。それを恩義にでも思うていたものか」 すると、かたわらの郎党たちも、こもごも、当時を思い出して言いあった。 「おそらく、敦盛卿のお心では、同じ討たるるものならば、源九郎君ぎみ
のお手に・・・・と希ねが っていたのではおざるまいか」 「それに違いない。・・・・都の辻では、すんでに、捕われの身となるところを、わが君のお情けで、摂津の渡辺まで見送られて行き、途々みちみち
でもその御温情を、繰り返し、繰り返し、申していたことでもあるし」 |