〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻
2013/12/20 (金) ろう  しゅう (一)

かたのように、首は、将座の実検に供えられたが、平家一門のうちの、いかなる公達きんだち の首であるのか、源氏の諸将はもとより、討ち取ったとう の熊谷直実からして、
「どう、問うても、さいごまで、名乗り申さぬ敵でありましたので」
と、 えぬ答えで、かんじんな、それを知ってはいなかった。
しかし、義経は、熊谷の浮かぬ容子を見あわせて、強いては詮索せんさく もしなかった。 「いずれ、首は都へのぼ すゆえ、多くの都人が見れば、すぐたれなるや知れるであろう」 と、つぶやいて、祐筆ゆうひつ の者をかえりみ、
「首帳には、ただ、公達首きんだちくび 一ツと記しおけばよからん」
とだけ言ってすませた。
いかに敵の大物らしく思われても、氏名が明らかならぬものは “拾い首” 同様、軍功帳の特筆にはならないのである。人びとは 「またしても、熊谷どのの首尾の悪さよ」 とあわ れむもあり、ひそかに失笑する者もあった。
熊谷はいちど引き退って、附近の松原のあいだに幕舎を結んだ。そして兵とともに、その夜は眼むったが、翌晩、 けてから、また、にわかに迎えをうけて、
「何事のお召しでしょうか」
と、義経の前へ来て、ぬかずいた。
左右には昨日いた諸将の顔もすべて見えない。直属の郎党ばかりで、いつになく水入らずの様子だった。軍幕とばり の内に、松落葉などかきあつめ、小さな き火を囲いあって、主従、団欒まどい のようなむつ まじさである。
見れば、一同たて を敷いて、めずらしく、小酒盛のおりらしく、義経も杯を手に持っていた。
熊谷を見ると、義経は、へだてなく、たて の一座を分け与えて、
「昨夜は、数日来の疲れもあれば、一気に熟睡したであろうが、こよいはいかがあらんと、深更だが、わざと迎えにやったのだ。くつろいで飲むがよい」
と、かたわらの那須大八郎に、瓶子へいし を取らせた。
熊谷は初めて、人心地を味わうように、杯を押しいただいた。
「ときに、熊谷どの」 義経は、いたわ るいうな眼でその姿を見やりながら ── 「昨日、御辺が須磨すま浜戦はまいくさ にて討ったる人のお首、そのたれなるかが、ようやく今日、相分かった。それも御辺に、聞かせばやと思う呼んだわけだが」
「や。・・・・お分かりに相なりましたか」
「されば、今この陣中にある捕虜とらわ れの平家の大将に、あの首級しるし を見せて問うたところ、はらはらと落涙に及び、あわれ叔父の子もか ── とつぶやかれた」
「では、重衡しげひら の中将どのが御覧あって、叔父の子と申されましたか」
熊谷もまた他の人びとも、かなたの林間のかす かな灯影へ、思わず眼を向けた。
庄ノ三郎の手に生捕いけど られた本三位中将ほんざんみのちゅうじょう 重衡しげひら は、昨日から、ここの荒れ朽ちた一堂へ、移されていた。
義経の情けで、縄目なわめ にもかけられず、鄭重ていちょう にされてはいたが、昼夜なく、番の兵士も立っている。── 星もるる破れ屋根のゆか に、どんな夢心地におわすやらと、敵の虜将りょしょう ながら、おたがい武門の身、思いやらずにはいられぬものがたれにもあった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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