〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻
2013/12/19 (木) がい した に も (二)
やや、いくさ の後の、全貌ぜんぼう が分かってくる ──
平家方は、一ノ谷だけでも、おそらく死者七、八百人は捨て去ったであろうという。
いかに、そこの木戸やとりで の合戦が、惨烈なものだったかが察しられる。
鵯越ひよどりご え、山手の辻、夢野の辺には、およそ四、五百人の敵屍がかぞえられ、長田、刈藻川の線から浜辺にかけての死骸しがい は、まだ、数えきれないほどだとある。
もちろん、生田方面にも、おびただしいかばね が残されたに違いない。
そして。平家勢の幾千人が生き残り、明石の浜やこの辺の海から、船で屋島へ逃げ落ちたろうか。
さらに、一門の内でも、名だたる公達きんだち や大将で、討たれた人びとも少なくない。
三位さんみ 通盛みちもり業盛なりもり
平清房、清貞。
小松殿の弟、師盛。
知盛の子、知章。
皇后宮亮経正、次弟経俊。
越中前司盛俊。
薩摩守忠度。── そして、生捕りとなった三位中将さんみのちゅうじょう 重衡しげひら など。
「たれが、たれの首をあげ。── たれはたれの首をせしめたぞや」
と、源氏の将士は、それを獲た味方の名を、称揚しながら、その後では、羨望せんぼう に似た声で 「武運のよさよ」 と、どよめくばかり、語りつたえた。
そうした雑語と歓声を包みながら、土肥実平の一軍が、輪田に着き、まもなく、河越重頼、畠山重忠、平山武者所李重、成田家正などの手勢も、続々、兵を大輪田附近にまとめた。
義経は、それらの凄惨せいさん な群れを向かえるごとに、眉を沈めて 「死者は。手負いは」 と犠牲の数をまずたず ね、いちいち、祐筆ゆうひつ に記録させて、
「なんと、多くを死なせたことよ」
と、胸ぐるしそうにつぶやいた。
じっさい、源氏方の死傷も、思いのほか多かった。 「寡兵かへい のためとはいえ、むりな作戦のとが であった」 と、彼は、自分のせいのように自責する。
しかし、戦捷せんしょう の陣は、凱歌がいか と誇りに、沸いている。生き残った命同士がいいあうことは、見えぬ味方のいたか みよりは、もっぱら自他の功名だった。そういうことに、一切、無縁の存在のように、沈黙を守っていたのは義経が直属の臣 ── いわゆる子飼いの、武蔵坊弁慶、佐藤継信、忠信、伊勢三郎、鎌田正近、伊豆有綱、深栖ふかすの 陵助りょうのすけ といった者たちだけだった
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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