やや、戦
の後の、全貌ぜんぼう が分かってくる
── 平家方は、一ノ谷だけでも、おそらく死者七、八百人は捨て去ったであろうという。 いかに、そこの木戸や砦とりで
の合戦が、惨烈なものだったかが察しられる。 鵯越ひよどりご
え、山手の辻、夢野の辺には、およそ四、五百人の敵屍がかぞえられ、長田、刈藻川の線から浜辺にかけての死骸しがい
は、まだ、数えきれないほどだとある。 もちろん、生田方面にも、おびただしい屍かばね
が残されたに違いない。 そして。平家勢の幾千人が生き残り、明石の浜やこの辺の海から、船で屋島へ逃げ落ちたろうか。 さらに、一門の内でも、名だたる公達きんだち
や大将で、討たれた人びとも少なくない。 三位さんみ
通盛みちもり 、業盛なりもり
。 平清房、清貞。 小松殿の弟、師盛。 知盛の子、知章。 皇后宮亮経正、次弟経俊。 越中前司盛俊。 薩摩守忠度。── そして、生捕りとなった三位中将さんみのちゅうじょう
重衡しげひら など。 「たれが、たれの首をあげ。──
たれはたれの首をせしめたぞや」 と、源氏の将士は、それを獲た味方の名を、称揚しながら、その後では、羨望せんぼう
に似た声で 「武運のよさよ」 と、どよめくばかり、語りつたえた。 そうした雑語と歓声を包みながら、土肥実平の一軍が、輪田に着き、まもなく、河越重頼、畠山重忠、平山武者所李重、成田家正などの手勢も、続々、兵を大輪田附近にまとめた。 義経は、それらの凄惨せいさん
な群れを向かえるごとに、眉を沈めて 「死者は。手負いは」 と犠牲の数をまず訊たず
ね、いちいち、祐筆ゆうひつ に記録させて、 「なんと、多くを死なせたことよ」 と、胸ぐるしそうにつぶやいた。 じっさい、源氏方の死傷も、思いのほか多かった。
「寡兵かへい のためとはいえ、むりな作戦の科とが
であった」 と、彼は、自分のせいのように自責する。 しかし、戦捷せんしょう
の陣は、凱歌がいか と誇りに、沸いている。生き残った命同士がいいあうことは、見えぬ味方の傷いたか
みよりは、もっぱら自他の功名だった。そういうことに、一切、無縁の存在のように、沈黙を守っていたのは義経が直属の臣 ── いわゆる子飼いの、武蔵坊弁慶、佐藤継信、忠信、伊勢三郎、鎌田正近、伊豆有綱、深栖ふかすの
陵助りょうのすけ といった者たちだけだった |
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