「・・・・・・」 だが、そこに、何が起こったのか。 上なる勝者、下なる敗者、一瞬、どっちの呼吸も、止まっていた。熊谷の刀の手は、痺
れたように、ただそれを、敦盛の喉のど
もとへ擬ぎ したまま、突き刺すことを忘れている。 しずかに、死を受け取ろうとする刹那せつな
の白い生命のまたたきが、熊谷の心のどこか一角を、ふと、われに返らせたに違いない。 そして、この貪欲どんよく
な功名の猟人も、爪にかけた獲物の、余りな可憐いじら
しさ、美しさに、 「── あわれ、まだ、うら若さよ」 と、同じ年ごろの、わが子を、思い出したのだった。 彼の一子、小次郎直家は、明けて十七。 下に組み敷いている内兜うちかぶと
をうかがえば、この敵もまだせいぜい十六、七の年ごろにすぎない。 黒々と歯に鉄漿かね
を染め、薄う っすらと、公達化粧の痕あと
を残し、覚悟の眉をひそめている様さま
、何か、あどけなくさえ思われた。生きながら死んでいる乙女おとめ
の容顔かんばせ を見るかのような心地がした。 ──
親もあろうに。 こう思ったとき、熊谷は、もう、彼自体のもろさに心をくずされてしまい、日ごろの愚直そのものに戻っていた。東国の野を耕して来た人間の中にはままある型なのである。野性を基調とした素朴な人間愛を、彼も具足の下にそのまま持っていた。──
彼は、ここが戦場であることも、うかと忘れ、我にもあらぬ涙さえ眼にもって、下なる人の顔へ、そっとたずねた。 「公達、公達・・・・た、た、助けて参らせよう。おん名を名乗らせられい。そも、、和君わぎみ
は、平家の内の、いかなるお人にて渡らせ給うか」 「・・・・・・」 敦盛は、眼を見開いた。いかし、敵の兜顔かぶとかお
を、見すましただけである。 むりもない、疑っているのだ。と思ったか、熊谷はかさねて言った。 「なんと、和君の一人ぐらいを助けたとて、軍いくさ
の勝敗にかかわりもせぬ。・・・・ただ、おん名だけを、もらされい。お命は、一存にて、助け参らさん。おん名はなんと仰せらるるか」 敦盛は初めて、答えた。 「和殿は、源九郎義経どのの家来か」 「さん候う。──
熊谷直実と申す者」 「ならば、わが名は、お主の九郎どのに問い給え」 「えっ、九郎の殿と、お知り合いか」 「いや、知らぬ、敵の大将、親しいはずはない。けれど、義経どのの侍に討たるるは、いささか本望。なんじにとっても、このわれは、よい敵ぞや、首を取って、義経どのの前に供えよ」 敦盛は、身を起こして、すわり直した。茫然ぼうぜん
という態は、熊谷の方だった。 「── 疾と
く斬れ」 という叱咤しった のすずしさに、驚かされたほどである。 遠くには武者声や矢音もしている中なのだ。敵味方の判別はつかないが、人目も惧おそ
れられた。逡巡しゅんじゅん は許されない。 それに
「わが名は、九郎どのに問え」 と言った敦盛の一言は、熊谷に、いらざる慈悲心は身の禍わざわ
いになろうかとも、考えさせた。 「主君も御存知の敵、後日、助けたことが、ふと、知れぬ限りもない」 と、迷いの上にまた迷いが重なっていた。 だが、何の迷い、何の思慮、めぐり会ったこの武勲を前にしてと、彼は、自分の意気地なさを、心の中でののしったにも違いない。 ──
一瞬の後には、手の太刀から滴々と血を雫しずく
させていたのである。左の手には、敦盛の着ていたひたたれの袖に、その首を包んで持ち、また、敦盛が大事そうに帯びていた一管いっかん
の横笛も取って、自分の腰へ移していた。そして蹌踉そうろう
と ── まったく闘い疲れたか、血に酔ったような足どりで ── わが駒のそばへ歩み寄った。 彼ほどな剛の者が、しかも、克か
ちとった武勲を手に、なんで、そんなにまで闘い疲れたのだろうか。やがて馬上、陣へ引き揚げて行く姿にさえ、得意な風など、どこにもなかった。 |