〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻
2013/12/18 (水)  かんの たい (二)

それより少し前のこと。
熊谷は、敦盛の姿を遠くに見つけるやいな、
「しめた、よい敵」
とばかり、須磨の磯松原を駆け縫って、ただ一騎、このなぎさ まで、追っかけて来たのである。
「──天の与えぞ」
と、叫びもしたいほど、彼の、とかく武運に恵まれない不遇な恨みは、この時、功名の望みに燃えあがっていた。
なんと、おれほど、武運つたな い者があろうか ── とは、今も今まで、いらいら抱いていた自分への嘆きだった。
宇治川でも、また、今暁の合戦でも。
他の同僚は、それぞれ、武功を立てたが、彼のみは、一子直家が二度も手傷を負って退くような不運を見たほか、まだ、敵らしい敵にもめぐり会っていない。
わけても熊谷が、ひそかに残念にしていたのは、義経が初の院参のさい、その供にもれたことだった。
それやこれ、剛直な男も、少なからず気を腐らせ、今朝から功名にあせっていた。
そしてしきりに、
「── よき敵もがな」
と、血まなこになっていたおりもおりだったのである。「のが がしてなろうや」 と、阿修羅あしゅら になっていたのも無理ではない。
「やあ、見奉るに、平家の内にても、名ある大将の御一人に候わめ。敵に呼びかけられて、返し給わぬほど、恥知らぬ君にては、よも、あるまじ。返し給え。いさぎよく勝負を遂げて、武門の人たることを示し給え」
すると、かなたの浪間の声は、 「おうっ」 と、答えたようだった。
敦盛は、すでに、駒をめぐらしている。そして、熊谷の影をこう に見つつ近づいて来た。沖へ向かっては、おび えがちだった駒も、岸へ向けかえられると、よく泳いだ。そしてその馬蹄ばてい が、浅瀬の一端をふんで立つやいな、ほとんど本能的なはや さで、白波を蹴り、熊谷の駒へ、ぶつかって来た。
「── あっ」
待ち構えていた熊谷が、かえって、駒をかわしたほど、それは、盲目的な勢いだった。
「おお、よくぞ、引っ返された。さすが、恥を知るよき大将の君にやおわさん。・・・・いで」
と、熊谷もまたともになぎさ を駆け上がって、
「名乗り給え。── そも、かくいう者は、武蔵国の住人、熊谷丹治次郎直実。── 会い奉るこそ、冥加みょうが なれ」
と、大音声で言った。
敦盛は、名乗り返そうともしなかった。
その全姿は ── 萌黄匂もえぎにお いの鎧も、つる の模様を刺繍ししゅう した直垂ひたたれ も、こがねの太刀も、そして鞍やあぶみまでも ── 滝のような濡れしずくをしたた らせて、何か、夢見る人のようですらある。
「・・・・冥加みょうが とや」
ふしぎな言葉と聞こえたのか。
敦盛は、口のうちでつぶやいたが、その唇さえ、海の冷えにこご えて、紫ばみ、生きた人の色はなかった。
が、熊谷のひとみには、相手の姿すべて、一個の燦然さんぜん たる武勲の獲物としか、見えていない。
同時に、わずかな猶予も、許せない気がした。こういう間も、敵の加勢よりは、味方の邪魔がおそ れられる。功名争いという点では、味方の同僚こそが敵なのだ。せっかくの獲物も、首を挙げた者の手柄に帰し、つまらぬ目にあう例も少なくない。
「やあ、おし にもあらぬに、なぜか、ものをいい給わぬよの。名乗り給わずば、それまでのこと。いざ」
あららかな息吹いぶき の下に、だっと、駒をあお り出して、駆け寄せざま、
「組まんっ」
と、いど んだ。
「オオ」
敦盛は、相手の強力に、のけぞったが、奮然と、鎧の袖を鳴らして、熊谷のどこかを、必死でつかんだ。
が、もとより熊谷の敵ではない。
たちどころに、敦盛の体は、砂上へ投げつけられ、とたんに、小鳥へかかるはやぶさつめ を思わすはや さで、熊谷もまた、馬の背から、下のものへ跳び移っていた。
絢爛けんらん な獲物のもがきをひざに組み敷きながら、熊谷は、勝者の歓喜というものか、語意もない、獣じみたわめ きを、ただ無自覚に歯の根から発していた。
そして早くも、右手は、よろいどお しを引き抜き、
「お覚悟」
と、それだけは、はっきり言った。敦盛の首をかっ切ろうとしたのである。
本能的なこがきは見せたが、敦盛のそれは、抵抗というにも足りぬ戦慄せんりつ にすぎなかった。初めから、死ぬべく駒を引っ返して来た彼である。観念のまぶた をふさいでいた

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next