およそ、全戦場の修羅叫喚
は、卯う ノ刻こく
ごろ (午前六時) 一せいに始まって、巳み
ノ刻こく (午前十時)
には、終わっていた。 ── わずか、四時間少し。 若い人びと、惜しい才能も、どれほど無残な犠牲となったことか。 数でいえば、平家方よりも、源氏の戦死者の方が、なぜか、はるかに多かった。 だが、源氏の武将も多く死んでいるが、平たいらの
忠度ただのり のように敵味方から惜しまれたような大将は死んでいない。 彼は一ノ谷の主将だった。 忠度も、男の四十一。公達中でも文武兼備な人といわれていた彼。敗れは、ぜひもないが、死を急ぐべきではない
── と思いつつも、刻々、彼のまわりも危険に陥お
ちていた。 明石口に出て戦い、梅ヶ鼻で戦い、戦うたびに、味方の影の減へ
ってゆくのを煙の中に見て 「はや、これまで」 と、須磨すま
の西の山に、人数をまとめ、 「一たんの敗北は、きょうの敗れ、あすの日もまたあるものを。・・・・もう戦うだけは戦った。このうえは、駒ヶ林から輪田ノ岬にあるたくさんな味方の船へ向かって駆けよう
── そして、主上に供奉ぐぶ
し参らせ、ともあれ、屋島まで引き揚げん」 と、いい渡した。 そして、また、 「うかと、山を降らば、たちどころに、敵に押っとり囲まれよう。たがいに、かえりみするな。おのおの、よい道をとって、まっしぐらにただ、船へと急げ」 と、励ました。 思い思い、駆け下って、磯道を走るもあり、遠道を、隠れ隠れに、駒ヶ林の浜へ向かって落ちて行く将士もあった。 「いざ、われらも行こう」 と、忠度ただのり
は、残る人々を、あらためて、眸め
にかぞえながら、 「経正殿の弟御、敦盛あつもり
どのもおらるるよな」 と、呼んでみた。 「敦盛は、これにおりまする」 「おお、おられたの。・・・・兄君より陣に置いてとお頼みうけた和君わぎみ
ぞ。忠度がそばを離れずに駆け続いてまいられよ」 「はい」 「母衣ほろ
のひもにや、解けたるひもが、太刀の柄に絡から
みてみゆるぞ。落ち着いて、よう身支度も直されたがよい」 何かと、細こま
やかに気をつける。そして彼を先に二、三十騎、山蔭を駆け出し、須磨すま
ノ浦うら を東へ急ぎかけた。 |
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