という一首が見えたので、
「それよ、薩摩守
忠度ただのり という故入道殿の腹違いの御弟にて、幼少を熊野に生い育ち給いたる平家随一のゆかしき大将なれ」
と、すぐ全陣に知れ渡り、岡部の功名も、人びとにうらやましがられた。 あれほど、 「そばを離れずに」 と、忠度から言われていたものの、敦盛には、敵の喚おめ
きを突破しきれるほどな自信もない、力もない。 彼はいつか、その人を見失ってしまい、ともにいた味方のたれかれとも散り散りになって、ただ一騎、敵なき方へ、走っていた。 ところが。──
その行く手には、なおたくさんな源氏が遠くに見える。明石口の土肥実平や、西木戸を陥した平山武者所などの軍勢であったのはいうまでもいない 「西も敵、東も敵。ああいずこへ落ちようぞ」 行き暮れて、海の面も
を見ていると、輪田ノ岬や駒ヶ林の浜から、敗軍の将士を満載した船が、幾艘となく、すぐ眼の前の潮路しおじ
を、阿波あわ や四国の方へ、逃げ漂って行くのが見えた。 「おう、海は遠浅。・・・・馬を泳がせて、あの船まで」 敦盛は、駒を沖へ向け、ざ、ざ、ざざ、とそのまま海へ入って行った。 馬の腱けん
がかくれ、ひざが沈み、やがて、あぶみに波がかかり出すと、背に流している二引の母衣ほろ
は、潮風をいっぱいに孕はら んで、その姿は。ちょうど一羽の鴛鴦おしどり
が波上にもてあそばれているようだった。 |