〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻

2013/12/15 (日) しゆ さん かい きょう (三)

もとより、その阻止も、怒濤どとう の前に手を拡げたようなものでしかない。
しかし、小さくとも、その力闘は、たしかに、猛馬群の足もとを一瞬、行きつかえさせた。当然、監物頼賢けんもつよりかた がまず乱刃らんじん の下に斬り落された。そしてまた紅顔の公達きんだちたいらの 知章ともあきら も、無数な刃の中に、花の姿を、さんざんに、斬りさいなまれた。
知章は、なだ十七。
親の知盛は、子のために、からくも、虎口ここう をのがれ得たのだった。
彼は、すでに味方の総敗軍と分かったので、真一文字に、いそ の方へ向かって駆け、今し、輪田ノ岬を離れようと騒いでいた船の一艘を大声で呼びとめた。
ところが、船は、敗走の将士で埋まり、傾ぐばかり船脚も沈めている。
知盛の体だけは、どうやら、乗ることが出来たが、馬まで乗せきれない。 「馬は捨て給え。人の命には代えられぬ」 と、船上の味方は、口々にわめき騒ぐ。
中でも、阿波あわ田口重能たぐちしげよし は、
「中納言の君の御馬は、人も知る名馬。あのような良馬を、敵の手に させてはなるまい。ひと思いに、射殺せ」
と、言った。
馬は、長年飼われた主をよく知っている。
船へは上げられず、陸へも帰らず、潮の中に狂い立ったまま、悲しげに、二度三度、鼻を振り上げて、いなないた。
その長いのど もとを眼がけて、敗軍の狂兵たちが、矢をつがえたのを見、知盛は、
「待て、射たら許さんぞ。多年の愛馬。しかも、今日のわが命を、助けてくれたのもこの馬だ。あわれ、よい主人に拾われてくれよ」
と、泣いて馬を陸へ追いやった。
後にこの馬は、源氏の河越重房に拾われて、院のおうまや へ献上されたという。
それにしても、馬にさえこれほどな愛情を持つ知盛が、わが子知章の討死を後ろに見捨ててなぜ逃げたろうか。
もちろん、知章は、父の身代わりになる気で敵へ当ったに違いない。ともに討死しては、彼の願いは届かない事になる。── それもあるし、またおそらく、知盛の胸には、 「ここで、自分が果てては」 という後日の悲願もあったに相違ない。平家の未来を見とどけないでは、死ぬにも死にきれないとする無念に駆られていたろうことも、察するに難くはない。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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