〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻

2013/12/14 (土) しゆ さん かい きょう (一)

このところ雨もなかった。生田川の水は少なく、騎馬でわた すにも造作ぞうさ はない。
平家方は、木戸を小野坂の一箇所に限って、二重三重に逆茂木を引き、およそ堅固を極めたものだった。東国勢が、東ノ堤から百騎、二百騎と駆け向かっても、みな撃退されるか、川の半ばで、矢かぜにくるまれてしまうだけであった。
「暴勇はやめたがいい」
梶原景時は、彼らしい冷静さと計算から味方の妄動もうどう をいましめた。
「先陣ばかり り合って、たれも後陣に続こうとはせぬ。かか る者懸かる者、敵の好餌こうじ になるばかりぞ」
指揮を変えて、徒士かち の小隊を、十幾組も編制させ、川の上下から散兵的に駆けわた らせて、
「射られても射られても、ただ、はいこご んで、敵の木戸のさく を打ち壊せ」
と、命令した。
その工兵作業が功を奏してから、騎馬隊の突進も、初めて可能になった。そしてたちまち、小野坂を中心に大混戦の模様となった。
「今こそ、本軍をお渉しあるもよろしいでしょう」
景時は、総大将の範頼のりより にすすめた。
この老巧な軍奉行いくさぶぎょう に、範頼は心服していた。一にも二にも、景時のことばのままに動いた。
しかし、その平三景時は、長男の源太げんた 景李かげすえ が、乱軍にまぎれて行方も知れないと聞いて、
「さては、余りな深入りの末、敵に囲まれているのだろう、源太を討たせては、親の辱、鎌倉殿へもお顔向けがならぬぞ。いざ来い子ごもら、おれに続いて」
と、次男の平次景高、三男の三郎景家も引き連れ、乱軍の中へ、探しに駆け入った。
源太景李は、宇治川でも、佐々木高綱と先陣を争って、名馬 “磨墨するすみ ” にものをいわせた男であり、親の平三へいざ 景時かげとき にとっては、このところ、鼻高々な息子なのだ。
「源太よ、どこに」
と、求めて行くうち、案の定、敵に包囲されて大童おおわらわ となっている彼の姿を見出した。
彼の肉親たちは、総当りで敵を 散らし、源太を肩に助けて引っ返した “梶原が二度のかけ ” といわれたのは、この時のことである。
なお、この日、人目を引いたのは、源太景李が、えびら に梅の花を して奮戦した姿だった。
古歌の ── “吹く風を何といひけん梅の花、散りくる時ぞ香は匂ひける” を思い合わせて、
「古歌のこころ を、知ってか、知らずにか。東国勢の中にも、風流な武者はいる」
花箙はなえびら よ、花箙の源太よ」
と、敵の平家もいいはやしたという。
しかし、こうした梶原父子の功名ばなしは、後に梶原景時が、鎌倉御家人中の筆頭となって、権勢大いに振ったので、後日の人びとが、彼へのおもねりに、一そう誇称したのかも知れない。
おなじ日、おなじ生田ノ森で奮戦した武蔵の藤田行康や、行康のおい で、まだ十七歳でしかない江戸四郎信賢の戦死などは、梶原父子にも劣らないものだが、さほどに有名にもならなかった。
ともあれ、生田の大手口は、矢戦やいくさ に始まって、工兵の破壊工作に続き騎馬隊の突入という、正攻法によって展開され、やがて、小野坂の木戸から附近の民家にまで、黒煙くろけむり がひろがっていった。
そして間もなく、生田から海辺に添う磯道いそみち と、山手を縫う西国街道との二方面に分かれて、あり のように潰走かいそう し出した人馬の影が、追っつ、返しつ、果てもないなだれを引いて行くのが見られた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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