このところ雨もなかった。生田川の水は少なく、騎馬で渉
すにも造作ぞうさ はない。 平家方は、木戸を小野坂の一箇所に限って、二重三重に逆茂木を引き、およそ堅固を極めたものだった。東国勢が、東ノ堤から百騎、二百騎と駆け向かっても、みな撃退されるか、川の半ばで、矢かぜにくるまれてしまうだけであった。 「暴勇はやめたがいい」 梶原景時は、彼らしい冷静さと計算から味方の妄動もうどう
をいましめた。 「先陣ばかり競せ
り合って、たれも後陣に続こうとはせぬ。懸かか
る者懸かる者、敵の好餌こうじ
になるばかりぞ」 指揮を変えて、徒士かち
の小隊を、十幾組も編制させ、川の上下から散兵的に駆け渉わた
らせて、 「射られても射られても、ただ、はい屈こご
んで、敵の木戸の柵さく を打ち壊せ」 と、命令した。 その工兵作業が功を奏してから、騎馬隊の突進も、初めて可能になった。そしてたちまち、小野坂を中心に大混戦の模様となった。 「今こそ、本軍をお渉しあるもよろしいでしょう」 景時は、総大将の範頼のりより
にすすめた。 この老巧な軍奉行いくさぶぎょう
に、範頼は心服していた。一にも二にも、景時のことばのままに動いた。 しかし、その平三景時は、長男の源太げんた
景李かげすえ が、乱軍にまぎれて行方も知れないと聞いて、 「さては、余りな深入りの末、敵に囲まれているのだろう、源太を討たせては、親の辱、鎌倉殿へもお顔向けがならぬぞ。いざ来い子ごもら、おれに続いて」 と、次男の平次景高、三男の三郎景家も引き連れ、乱軍の中へ、探しに駆け入った。 源太景李は、宇治川でも、佐々木高綱と先陣を争って、名馬
“磨墨するすみ ” にものをいわせた男であり、親の平三へいざ
景時かげとき にとっては、このところ、鼻高々な息子なのだ。 「源太よ、どこに」 と、求めて行くうち、案の定、敵に包囲されて大童おおわらわ
となっている彼の姿を見出した。 彼の肉親たちは、総当りで敵を蹴け
散らし、源太を肩に助けて引っ返した “梶原が二度の懸かけ
” といわれたのは、この時のことである。 なお、この日、人目を引いたのは、源太景李が、箙えびら
に梅の花を挿さ して奮戦した姿だった。 古歌の
── “吹く風を何といひけん梅の花、散りくる時ぞ香は匂ひける” を思い合わせて、 「古歌の意こころ
を、知ってか、知らずにか。東国勢の中にも、風流な武者はいる」 「花箙はなえびら
よ、花箙の源太よ」 と、敵の平家もいいはやしたという。 しかし、こうした梶原父子の功名ばなしは、後に梶原景時が、鎌倉御家人中の筆頭となって、権勢大いに振ったので、後日の人びとが、彼へのおもねりに、一そう誇称したのかも知れない。 おなじ日、おなじ生田ノ森で奮戦した武蔵の藤田行康や、行康の甥おい
で、まだ十七歳でしかない江戸四郎信賢の戦死などは、梶原父子にも劣らないものだが、さほどに有名にもならなかった。 ともあれ、生田の大手口は、矢戦やいくさ
に始まって、工兵の破壊工作に続き騎馬隊の突入という、正攻法によって展開され、やがて、小野坂の木戸から附近の民家にまで、黒煙くろけむり
がひろがっていった。 そして間もなく、生田から海辺に添う磯道いそみち
と、山手を縫う西国街道との二方面に分かれて、蟻あり
のように潰走かいそう し出した人馬の影が、追っつ、返しつ、果てもないなだれを引いて行くのが見られた。 |