生田川は、いわば正面の玄関である。新中納言知盛を総大将に、本三位中将重衡しげひら
がその副将であったのをみても、いかに平家が、ここの守りを、重視していたかが分かる。 その兵力も、五千余騎、どこより多い。 もう、去年の暮れから、逆茂木さかもぎ
を打ち、柵さく を結い、やぐらを組など、防塁ぼうるい
としての構築も終わっていたのだ。 けれど、二月七日の未明には、ただひとつ、大事なものを失っていたのである。それは、一ノ谷や鵯越えとひとしく、 「八日までは、まず休戦」
と、油断しきっていたことだった。 だから蒲冠者かばのかじゃ
範頼のりより の源氏二千余騎が、その前日、西ノ宮から魚崎、御影みかげ
の辺りまで来ていると分かっていたが、 「院より停戦の御命もあること。よも、手出しの動きではあるまい」 と軽く見ていたのである。 ところが、七日未明には、いつの間にか敵は接近していた。すべての白旗や旗指物を、あらわにひるがえし、卯ノ刻と同時に、鬨とき
の声を合わせて攻撃して来たのである。 この暁の攻勢に、一番乗りを名乗った者は、武蔵の河原兄弟という、無名の郷士だった。 その河原太郎、次郎の兄弟は、 「なんとか、人に優れた手柄をあげたいものだ」 と兄弟して謀しめ
し合わせ、まだ全軍が攻撃に出ないうちに、川を忍び渡り、逆茂木さかもぎ
を乗り越えて、敵の中へ、駆け入った。 そして、小高い所から、弓を構え、 「私市きさい
党の河原太郎高直、次郎盛直の兄弟なり。生田ノ森の先陣は、こう二人ぞ」 と、第一矢だいいっし
を打ち込んだ。 けれど、平家方の者は 「おや?」 と、おかしげに、振り向いたり、小手をかざして、兄弟の影を見ているだけであった。 もう目前に、範頼らの源氏が、攻撃に出たのは分かっていたはずで、なお休戦の眠りにあったわけではない。 しかし、わずか二人で、大軍の中へ飛び込んで来た兄弟の無謀さを、むしろ可憐かれん
と見て 「何ほどのことが出来よう、ただ見措お
いて、愛せよや」 という気持だったらしい。 ── ただ、見措いて愛せよや。これいかにも、平家人へいけびと
らしい考え方だ。 しかし、兄弟とも、なお躍起やっき
に矢を射込むので、捨ててもおけずと、平家の真名辺まなべ
五郎ごろう という強弓の達者が、ただ一矢のもとに、河原太郎の胸を射通した。 弟は、兄の亡骸なきがら
を肩にかけて、退きかけたが、真名辺の二の矢は、弟の方も、すぐ、射たおした。 「可惜あたら
、こんないいやつも、殺さにゃならぬか」 平家の新中納言は、敵の兄弟の首を見、かえって嘆かわしげにいったという。 そして、これが戦端の口火となり、梶原景時と、その息子たちの五百余騎を始め、東国勢すべて、轡くつわ
を並べて、生田ノ森へ攻めかかった。 |