〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻

2013/12/13 (金) 一 ノ 谷 絵 巻 (三)

やがてのこと。
総大将の薩摩守さつまのかみ 忠度ただのり も、ついに 「── 大事いた る」 と、知ったものか、陣門を開いて戦うべし、と号令を出した。
院宣使の下向する八日までは、休戦というはずなのに、どうして、源氏の襲撃が、行われたのか。
しかも、こう、計画的な不意打のかたちで来たのか。
「怪しとも怪し・・・・」
と、ただただ、疑うばかりだったが、事実の急に、
「さては、さては休戦とは、院の謀計よ。しやっ、言語道断」
と、さすがの忠度ただのり も、まな じりを上げて怒った。
ところが。
彼が、西木戸の味方を励ましていると、こんどはとりで の後ろで、大混乱が起こった。
そこはまったく無防備な所だった。一ノ谷の裏山にあたり、断崖絶壁だんがいぜっぺき に囲まれていたので、さく も構えもしていなかったからである。
初め、その絶壁の上から、岩石が落されて来、また、鹿しか や馬なども、追い落とされて来たと思うと、無謀にも、およそ七十騎ばかりの東軍勢が、だ、だ、だ、だっ ── と一せいに、なだれ下りて来たのである。
もちろん。いかに、騎馬に巧みな坂東武者でも、断崖だんがい の途中で、くら から弾み上げられ、宙をまろんで落ちたのもあり、馬に馬がぶつかって、横だおれのまま、すべり落ちて来た者もある。
そのほか、首尾よく駆け落して来た騎馬でも、駒脚のツナギを折って、のめりつぶ れたのも多かったし、背に人を見ず、空背からせ のまま、いななき狂うのもたくさんあったが、ともかく、幾十人かの源氏武者が、たとえば、空から落下したように、敵のとりで の真っただ中に立ち、
「わああっ」
と、平家方のきも を奪ったことはすでに争い難い事実であった。
たいした建物はなかったが、彼らの無事な者は、ただちに、そこらの兵糧倉ひょうろうぐらも や仮屋や幕舎や、また主上のおいでにならない行宮あんぐう などへ、火を放って、暴れまわった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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