〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻

2013/12/12 (木) 一 ノ 谷 絵 巻 (二)

「や。何者やら、こなたへ駆けて来るぞ。味方の物見か」
直実の注意に、わらわらっと数騎が先へ駆け、すぐ闇の中から 「物見の小者です」 と言う答えが聞こえた。
その物見の告げによると、一ノ谷の木戸は、もう十数町の間近にあり、そして味方の平山武者所の手勢も、志染しぞめ 、押部、伊川を越えて、はやそこへ近づきつつある、とのことだった。
「おう、またもや、平山に先を越されまいぞ」
熊谷勢は、にわかに、どっと駒足こまあし を早め出した。
暗い海の香の漂う磯山の谷ふところに、平家のとりで は、まだ眠っているかの如くなんの気ぶりの動きも見えない。
ここを、西の木戸というのは、東の生田口いくたぐち の守りに対し、播磨路はりまじ明石口あかしぐち ともいえる地の里にあったからである。
そこの西方から順に、三ノ谷、一ノ谷とよぶ磯やまの先が屏風畳びょうぶだたみ に重なっており、浜辺は狭く、往古は、断崖だんがい の切り岸が海に没しているところなどもあった、東西の交通路は、海岸を通らず、生田から山手を遠くまわり、塩屋しおや垂水たるみ へ降りて来たものだった。
真っ先に、熊谷勢が せた一ノ谷は、鉄拐てっかい鉢伏山はちぶせやま のふところにある小平地で、山すその口に、柵門さくもん を高く結い固め、天然のけん を誇っている。
── いや、天嶮てんけんたの んで、安心しきっているのだろうか、外より駒を寄せて、
「これは武蔵国の住人、熊谷丹治くまがいのたんじ 次郎直実じろうなおざね 、子息小次郎直家の手勢。この一ノ谷へ一番駆けにて せ参ったり。平家にも人やあらん。われと思わん者は撃って出給え」
と、幾たび、大音を揚げていど んでも、なお、何の答えもなかった。
百騎の小勢では、このさく を打ち破るのもむずかしい。内には、楯囲みした幾段もの陣地が見えるので。いつ一せいの乱射を浴びるかも知れないのだ。名乗りかけ、よい敵をおびき き出し、一騎打ちを遂げんことこそ、熊谷の望みであった。
しかし、敵もさるもの、
「その手に乗るな」
と、構えこんで、熊谷勢のあせりを待ち、機を計って、皆殺しにせんと、考えているのかも知れない。
とうこうつする間に、東雲しののめあか らんできた。はやこく も近い。熊谷勢は、また幾たびも、咆哮ほうこう をくり返し、
「出でよ、敵」
と、決戦を挑みぬいていた。
すると、別な道をとって来た平山武者所の一手もここへ落ち合って、先にもう熊谷勢が せているのを見、
「あれ、味方の熊谷が、木戸の正面へ先んじて、今日の軍功をあせりおるぞ。熊谷におくれをとるな」
と、小高い所へ駆け上がり、さく 内の平軍へ向かって、一せいに矢を射込んだ。
平家の侍大将には、越中次郎兵衛盛嗣もりつぐ 、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛あくしちびょうえ 景清かげきよ後藤内ごとうない 定経さだつね などがいた。それぞれに備えを分けて、
「今に見よ」
と、さっきから鳴りをひそめ、
「ひと泡吹かせん」
と、上将の令を待つ風だった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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