〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻

2013/12/11 (水) 一 ノ 谷 絵 巻 (一)

ひたぶるな坂東武者の中でも、人いちばい剛直ごうちょく で、また負けぎらいな武辺一徹はたれぞといえば、 「それは、熊谷くまがい どの」 と、味方の者ならすぐ言うであろう。
その熊谷次郎くまがいじろう 直実なおざね 、直家父子は、義経の本陣を離れ、早くに、白川谷から一ノ谷へ急いでいた。
手勢は、百騎ばかり。
鵯越えより狭い難路であった。
鉄拐てっかいみね の裏をまわって、多井畑たいのはた へ出、やがて、かぶと湿しめ る潮の香に、
「はや、敵の木戸も遠くないぞ」
と、はるかを、見下ろした。
一連の白い花とも見ゆる暁闇ぎょうあん の中の光は、明石、須磨へかけての長い岸打つ波ではなかろうか。
「小次郎。続いておるか」
ここだけではない。
親の直実は、途々みちみち も何度、後ろへ、こう声を掛けたか知れなかった。
子の小次郎直家は、わずか十六。それに、宇治川でうけた傷が、まだ、ほんとには癒りきっていない。
「お案じくださいますな」
小次郎は、はず んだ声で、父に答える ──
「父上のすぐお後より続いております」
鞍上あんじょう の疲れも覚えぬか」
「なんの、これしきな道」
「傷は」
「忘れ果てておりました」
「はははは、おれの子だ。多分、そう言うであろうと思っておったよ」
直実は、寛々かんかん として、笑った。
だが、そのサビた声音こわね には、どこか悲調がないでもない。
これは、彼ばかりではないが、およそ東国武者は皆、おのおのの郷を立つ日、 「人にまさ る功をたてねば、生きては還らぬ」 と、誓って出た。
武蔵大里熊谷ノ庄をあとに、郷等党たちから盛大な餞別はなむけ をうけて出陣した直実父子も、 「人にや劣り給うべき」 と、その武勲を期待されている。
武蔵七党の、党と党の間、一人と一人の間にも、そうした功名手柄を争う風は熾烈しれつ だったし、鎌倉の政策も、それを助勢するような仕組みになっていたのである。
わけて、直実は、愚直とも言われるほどな、正直者だ。後漢ごかん宋代そうだい の忠臣を型をそのままわが東国の野に生まれしめたような男といってよい男だ。
かつて、都の大番を勤め、平治の乱には、義朝よしとも に従って、悪源太義平などとともに、源兵十七騎の一騎となって、郁芳門いくほうもん の守りに立ち、そのころからすでに、
(武州には、熊谷丹治次郎くまがいのたんじじろう 直実なおざね という大剛な者がいる)
と、世上にも知られていた。
丹治たんじ というのは、本姓である。熊谷に住んだので、姓よりも、郷称が、姓のようになってしまったものだった。
── ともあれ、そうした直実父子なので、郷党間の声望も高く、鎌倉殿の期待も大きかったが、どうも、出陣以来、とかく武運にめぐまれなかった。
宇治川では、子の直家が、橋上一番駆けの功を、平山武者所ひらやまのむしゃどころ 李重すえしげ に揚げられていsまい、おまけに、負傷してしまった。
親の直実も、そこでは、敵の大将首も取らず、また、義経が入洛第一日の院参の供にも、そのせん からもれて、ひどく失意のてい に見えた。
それか、あらぬか、直実は 「── 次の合戦の一ノ谷でこそは」 と、ひそかに、今日を期していたらしく、子の直家も、父の胸を知って、まだ えきらぬ痛手いたで をこらえ、父に従って来たものだった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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