〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻

2013/12/10 (火) だま し 小 平 太 (三)

力がまさ っていたか、巧者の手練か、越中前司はついに、渾身こんしん の力で、若い小平六を組み伏せてしまった。小平六の必死なあがきも、ただ、磐石ばんじゃく を感じてしまうだけだった。
せつなに、彼の脳裡のうり を、死の影と、狡知こうちかす めた。眼には、自分ののど もとへ向いた短刀の切っ先を見、思わず、くわっと、それへ みつきそうな顔をして叫んだ。
「やあ待て。待ち給え」
「こ、この に、何を」
「もののふの慣いを知るなら」
「しゃつ、小ざかしい未練ごとをば」
「いや、名乗りもあわず、事終わるのは口惜しい。討つ者とて、たれに首かも知らず、討たるるわれも、敵の名を知らいでは、匹夫の死にざま ともいわれよう。和殿の誉れでもあるまいが」
「おう、ならば聞こう、まず名乗れ」
「ウウム、苦しい、あぎと の手を、もすこし、ゆる めてくれい」
「ちっ、たれがそんなたばか りに乗ろうぞ」
「無念や、今日のみは、いかにして、こう組み敷かれしか。とはいえ世の笑い者にはなりとうない。それがしは、武蔵国の住人、猪俣小平六則綱のりつな 。── 武蔵七党の内でも聞こえを取った男なるに、そのわれを組み伏せられし和殿はそも平家のたれか」
「知らずや、越中前司盛俊ぞ」
「ああ、さては、よい侍のはず。音に聞こゆる越中前司どのなりしか。しかし、今朝の一戦にて、平家も敗れ去るは必定。もし、わが命を助けおかるるならば、後日、猪俣党の勲功に代えて、御辺の一族何十人たりとも、鎌倉殿へ御推挙申し上げようが、なんと前司どの、この一命を助けてはくれまいか」
「だまれ、 不肖ふしょう なれど、盛俊は、たとえ平家が零落れいらく した後とて、余生を源氏に頼もうとは考えたこともない。聞くのも耳のけが れ。観念せよ」
「あっ、こ、これは理不尽りふじん な。── こう降参申しておるのに、むざと、降人こうじん の首をかく法があろうか」
「神妙に、縄目なわめはじ も忍ぶとや」
「負けたのだ、ぜひもない」
「よしっ、ならば、こう、から めてやる」
盛俊は、彼の襟がみを引きずり起こし、そしてその諸腕もろうで を、後ろへねじまげた。
小平六の神妙さは、もとより本心のものではない。おりふしかなたから飛んで来る一騎の影を見、 「敵か、味方か?」 と心の匕首ひしゅ を研いでいた。
近づくにつれ、それは、やはり猪俣党の一人と分かった。
しめた、と彼の五体は、うずきを起こすと、その反射で越中前司も 「や、新たな敵が」 と、縄目を急ぎ、思わず、後ろへ眼をくばった。
とたん、小平六は、盛俊の腰の辺りを強く とばした。
不意をくった盛俊は、よろよろと身をのけぞらした。くわっと、何か怒罵どば を吐いたが、声はかすれ、その手が腰の太刀を半ば抜くか抜かない間に、またも二度目の足蹴あしげ を食って、
「無念っ」
と、下の泥沼へ、あお に、ころがり落ちていた。
同時に、駆けつけて来た一騎は、小平六の家来筋に当る人見ひとみの 四郎という者であったから、泥沼から起ち上がろうとした越中前司も、その二人にのしかかられ、ついに、首を挙げられてしまった。
本来、こういう場合の軍功は、人見のものか、小平六の手柄か、むずかしい問題になりやすいのだが、一方が家来筋なので、後日の苦情になる惧れもない。小平六は、血泥にまみれた首を太刀の先に貫いて、
「平家方の大剛たいごう と聞こえつる越中前司盛俊をば、武蔵の住人、猪俣小平六則綱のりつな が討ったるぞや。小平六が討ち取ったりっ」
と、誇らかに名乗った。
後に。
鎌倉殿への披露には、侍大将中の “一の筆” に彼の功名が書かれたのであった。彼の勇名は揚がり、猪俣党は一時栄えた。これを見ても、当時、東国出身の荒武者たちが、さきごろの宇治川といい、また今度の合戦といい、いかに戦いを出世の道と見、千載一遇せんざいいちぐう の時とはや って、功名手柄の争いに、ひたぶるであったかが分かる。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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