〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻

2013/12/10 (火) だま し 小 平 太 (二)

ところが、猪俣小平六は、そうはしなかった。
騎馬も徒士かち も一団となって、刈藻川上流の、谷は浅いが、道もない傾斜へ、どっと落ちて行ったのだった。と見て、平家勢も人数を分けて、
「みなごろしにせよ、一兵も余すな」
と、なだれ降りた。
下は湿地帯だ、樹林が多く、地形も複雑だった。敵味方の雄叫びは諸方にこだま しているが、動きは、ほとんど分からない。
おりおり、朝の木洩こも をかすめ、流れ矢の羽音が大気を切るだけである。
小平六は、まだ馬を くしていなかった。
いや、駒のみか、 「今日こそは」 と、人いちばいなる功名心も、失ってはいないのだ。
平家の内でも随一の侍といわれる越中前司盛俊に会いながら、むなしく別れ去るような彼でもない。
「何も、先陣ばかり争わなくても、よい手柄は後ろにもある」
と、彼は敵の油断をうかがい、盛俊との一騎打ちの機をねら っていた。
また、盛俊の方でも、 「いずれ東国でも名のある者が、伏勢をひき いていたに違いあるまい」 と、敵の主将を狩り探していたことはもちろんだった。
── で、はしなくも、二人は、相互の姿を見つけ合った。しかし盛俊のそばには、徒士かち の郎党が七人もいたので、小平六はわざと馬を飛ばして逃げ去った。
幾本かの追い矢が、馬の脚や鎧の袖にからんだが、一本も彼の急所には当らなかった。
「やあ、待て卑怯者ひきょうもの 。道に姿を伏せたり、たたき出されてはまたすぐ、敵に背を見せて逃ぐるのが、東国武者と申すものか」
こう、さかんに恥ずかしめばがら、越中前司の駒も、追っかけてくる。
小平六は、振り向いた。
名倉ノ大池のそばだった。近づく敵は、もう越中前司一人と見えた。小平六は、ぐっと、馬をまわして、
「広言はあとにいたせ。足場をこそ選んだるなれ。いで来い」
と、大手を広げて待った。
── 組まん、という構えである。鹿しかつの さえ裂くといわれた怪力の持主なので、こう組み打ちをいど んだものに違いない。
しかし、越中前司も、若い頃は、何十人力と称された剛力である。駒を寄せ合うやいな 「望むところ」 と組み合った。そして、どうと鞍間くらあい に落ちたと思うと、一たん、ほぐ れ合って立ち直り、また、むんずと、組み闘った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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