東国勢の中の猪俣
小平六こべいろく もまた、その朝の鵯越えを坂落しに駆けていたが、途中、かれの猪俣党だけは、伏兵として、道の外へ潜めてしまった。 それも、義経の命であり、義経の予測は、当っていた。 だいぶ時を経てからであったが、列序もない狂奔と血なまこをもって、まっ黒に駆け降りて来た平家方の一軍がある。 明泉寺に陣して、鵯越えを扼やく
していた越中前司えっちゅうのぜんじ
盛俊もりとし なのだ。 彼としては、せっかく、そこの要害にい、ひそかな予感もあったのに、義経のため、鋭鋒えいほう
をかわされて、 「してやられたり!」 と、どんなにか、辱は
じもし、歯がみもしたにちがいない。 「まだ、くちばしも黄色い九郎の冠者。兵略として、知れたものと、浅く慮はか
ってうたのがわれの不覚であったるよ。── このうえはただ追いに追って、九郎殿のおん首を申しうくるか、盛俊が首を与えるか、辱はじ
こそ、そそがいでは」 二度まで、義経の策にかかって、大事な時機と地の里とを失ったのだ。盛俊なほどな老練も、つい戦に禁物な感情に燃えて、あせり切ったのもあわれだし、彼の日ごろにも似ない姿であった。 しかも、その盲目的な足もとは、またもや猪俣党の伏兵が、手ぐすね引いて、待つものだった。 「しゃつ、伏兵ぞ」 「敵がいるっ」 たちまち先頭に狼狽ろうばい
が起こった。それはすでに、敵が好餌こうじ
と見て射浴びせる矢風の下にあった。 道は狭い一すじの坂。左は崖がけ
、右は刈藻川へ落ちて行く谷川の流れ。 みるまに屍かばね
は算さん を乱した。道をふさがれて、よどみ、狂う人馬も、後から後から、屍しかばね
に屍を重ねてしまうほかはない。 「未練なく、馬を捨てよ」 と盛俊は味方へ叫んだ。 そして、彼の姿にも、幾すじかの矢が立っていたが、鎧よろい
の射向けの袖を顔の前に翳かざ
しながら、奮然と、敵のいる崖がけ
へ、伏せ身を進めて行った。 なんで見逃そうか、猪俣党は、つめ寄る敵へも、乱射を向けた。しかし、矢は灌木かんぼく
のあいだに、シュルッ、シュルッと、力抜けした空鳴りをして通るだけのものでしかまい。 「伏勢は、わずかな数ぞ。うしろを取れ」 盛俊の声と、ひとつに、 「小癪こしゃく
な敵めが」 ようやく勢いを盛り返していた平家方は、後方から猪俣党のもっと上に出て、逆に、彼らを苦しめかけた。 こうなっては、勝目のない小勢である。それに、箙の矢数やかず
も射尽くしていたので、小平六は急に、味方の形を変え出した。それは、先へ駆けた本軍の義経と一つになることが常識なのはいうまでもない。 |