〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻

2013/12/08 (日) みち もり た れ (四)

あたりの草は、たちまち、碧血へきけつ に染まり、泥土は飛んで、すさまじい激闘の人馬をつつんだ。
「あたら雑武者ぞうむしゃ の手にかかり給うな、逃げ落ち給え、わが殿」
戦い戦い、通盛の家臣は叫んだ。
だが、いつのまにか、絶叫も絶え、彼らのかばね は、源氏武者の刃の下につぎつぎと捨てられた。── そして、通盛もまた、危うかったが、とっさに、馬の腹を り、その姿も馬首も、まっ逆さまに、坂道を駆けて行った。
「や。あの君を逃がしては」
初めから、通盛をねら っていた木村源吾は、飛ぶが如く追っかけながら、持ちかえた弓を張り、二た筋三筋、つる を切った。
矢の一本が馬に立った。たてがみを高く打ち振り、狂いいなないたと見えたとき、通盛の姿も馬も、右側のがけ へまろび落ちていた。
源吾も、すぐ馬を捨て、崖を駈けつつ、何度もころんだ。つけねら う人の影は、樹間を走って、刈藻川のそばへ出ている。
やっと、近づきえて、源吾は何かわめ いたが、どうしたのか、正しくは名乗り得なかった。
そこは長田の下、土俗のとな えで、夫婦池みょうといけ と呼ばれている昼も薄暗い所だった。
「源吾よな」
通盛の方から言った。
大樹の幹をうしろに、その人は、きっと立って、近づく者の影を、いやしむように めつけていた。
その血相といい、つづ れたよろい や、剣装の光が、何か、妖気ようき をおびているものみたいに、源吾を威圧した。いや、もと仕えていた一門の君という潜在感が、彼をひる ませたのかも知れなかった。
しかし、平時では近づき難い人であればあるほど、彼の功名心は大きく駆られた。
もいちど、彼の赤黒い口が、大きく開いて、何か獣に近い声を発するやいな、大太刀の青光りとともに躍り掛かった。通盛は、なお手にしていた長巻をもって打ち払い、決して、この功名鬼の野望は遂げさせそうもなかった。
源吾も勝負あせりに見え、通盛も打物疲れをしてきたか、たちまち、双方とも得物を捨てて組討となった。そして、もろくも言語は組み敷かれ、
「恥こそ知れ、この下臈げろう
と、もがき抜くその面を下に見、通盛は、痛罵つうば を加えた。
けれど、にわかに通盛の容子に、狼狽ろうばい が見えた。短刀のさや が抜けなかったのである。とも気がつかず、鞘のまま源吾ののど もとを突いたので、当然、下からの抵抗はなお止んでいない。
やはり、通盛も、まことの武門育ちではなかったのである。彼はあわてて短刀のひも を口で解こうとした。── その間髪に、源吾は彼を ね返し、こんどは通盛を下に抑えつけた。
「── 討ったっ。三位通盛のみしるしを、木村源吾俊綱が討ったぞ」
血潮のかたま りのような物を横抱きにしたまま、彼の姿は、狂気したか、夢見る人間のごとく、どこへともなく素っ飛んで行った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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