〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻

2013/12/07 (土) みち もり た れ (三)

源氏の襲撃と、寝耳を驚かされたせつな、およそ平家の人という人が、きもを消したばかりでなく、われを忘れて叫んだ声は、
「わ、和議とは、いつわ りだったのか」
「卑怯っ。院も、御卑劣」
「あら無念。だまし討ちよ」
といううら みだった。
とはいえ、天から降ったように感じた源氏の鉄騎は、目前に、わが陣地を蹴散らしている。 「女々めめ しと聞かれんは、口惜し」 と、平家の公達ばらも、たて り、馬にまたがり、しのぎを削って、坂東武者の太刀風へ身をさらした。
兵力では、平家は源氏の何倍も優位にある。ここの二陣地とて、いうまではない。しかし、地勢と時と心理とは、まったく、平家に不利だった。坂上からの不意打を低地に受けての戦いである。崩れ立つや、逃げ足は止まらなかった。そして、一たん敗勢をきざ すと、味方同士の数の過大さがかえって混乱を大きくし、大将の指揮も叱咤しった も、まったく いはなかったのである。
この有様を見、能登守教経は、
「あな、ふがいなき味方よ」
と怒って、薙刀なぎなた を打ち振い、東国武者二、三と渡りあって、たちどころに、中の一騎を斬り落した。
そのすばらしい薙刀は “龍炎りゅうえん ” という銘があって、よく教経の手に馴れている業物わざもの だった。
「やあ、兄君はここを退 けい。いては、かえって、足手まとい」
彼は、龍炎に血を飽かせながら、幾たびも、乱軍の中で、叫んでいた。
事実、いたずらな味方同士の混乱と、狭隘きょうあい な地勢が、彼の働きまでどんなに不自由にしていたか知れない。
しかし、彼の兄三位通盛は、もうそれ以前に、なだれ打つ味方に巻き込まれながら、坂又坂のとど まりもない道を、十町余り逃げ降りていた。
そして、多少兵を集めうる平地を見ると、その通盛も、
「さは退 くな、とど まれ、止まれ」
と、備えを立て直そうとした。しかし、馬も人も、後ろのおび えと、山砂のすべりに駆られ、浮き足をつづけ、また思い思いに、小道へ れたり、谷道へ影を沈めてゆく兵もあって、わずか十数騎が、通盛のそばを囲んでいるに過ぎなかった。
すると、坂の上から一群の東国武者が、
「見つけたぞ。あれなん三位さんみきみ
とばかり、通盛を眼がけて、驀走ばくそう してきた。
その真っ先にあったのは、もと平家の侍で、通盛の顔をよく見知っていた近江佐々木の木村源吾俊綱という者だった。
俊綱の郎党のほか、武蔵国の住人玉井四郎資景や、児玉党の面々めんめん など、かれこれ十騎ほどが、
「よい敵」
と、功を争って、襲いかかった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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