〜 〜 『 寅 の 読 書 室 Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻
2013/12/06 (金)
通
(
みち
)
盛
(
もり
)
討
(
う
)
た れ (二)
その前夜。
越中前司
(
えっちゅうのぜんじ
)
盛俊
(
もりとし
)
は、
「心得ぬ昨日今日の取沙汰」
と、味方の平和気分や、院使の期待などに、多分な疑惑を抱いて、
「かかるおりこそ、なお要害の守りが大事」
と考え、長田の陣を進めて、
明泉寺
(
みょうせんじ
)
の
三位
(
さんみ
)
通盛
(
みちもり
)
の陣と、陣所がえを行っていた。
通盛の兵は、奥平野まで下がって、弟の
能登守
(
のとのかみ
)
教経
(
のりつね
)
の陣と、接していた。彼は鵯越えの途中を守り、教経は、西国街道の辻を
扼
(
やく
)
していたのである。
── で、平家方のどの陣よりも、越中前司盛俊こそ、義経の潜行に対して、最も近い所にいたわけだった。
当時の明泉寺は、現在の位置より、もっと、鵯越え道の奥にあり、
古明泉寺
(
こみょうせんじ
)
といわれている。
みずから、そこまで出て、警戒していたほどの越中前司である。小道小道にまで、
哨兵
(
しょうへい
)
を立て、部下一統にも、
「油断すな。怠る者は、罰するぞ」
と、かたく戒め、もとより自身とて、
物具
(
ものぐ
)
も解かず、夜通しの山風にさえ、気を砥ぎすましていたのであった。
── が、暁近く。
眠るともなく、柱にもたれて、彼もいつか、うとうと居眠っていたものらしい。
いきなり、横顔でも
撲
(
は
)
られたように、彼の体が、床ふみ鳴らして踊り上がった。その耳を、あわただしげな兵の声が、暴風のように突き抜けた。
「それみよ、いわにことかは」
源氏の襲撃ぞと聞いたとたんに、口をついて出た彼の第一語はそれだった。
とはいえ、予感が当ったのを、誇る気にはなれなかった。とっさに、髪の根が熱くなり、うろたえ騒ぐ渦へ向かって、
「つづけよ、者ども」
と、真っ先に、駒を躍らして出た。
一陣の敵勢を、眼に見たという
哨兵
(
しょうへい
)
の言葉によると、その敵は、みな不敵な
面
(
つら
)
だましいを持った一かどの武者ばかりで、中にも、装い見事に
母衣
(
ほろ
)
を着け、大将騎旗をかざした
眉目
(
びもく
)
美
(
うる
)
わしい若武者もあったと聞くなり、越中前司は、
「それこそ、敵の九郎
御曹司
(
おんぞうし
)
」
と、叫び、
「さては、白川谷を鉄拐ヶ峰へ越え出で、一ノ谷の木戸なき所を突かんとする策とは見えたり。あら、うれし、敵の大将義経どのは、求めて、われから越中前司盛俊の囲みのうちにはいったるぞ。── 追いしたって、手捕りにせん」
と、
御奮
(
ふる
)
い立った。
追っかけ、追っかけ、馬群を
揉
(
も
)
んでゆくうちに、果たして、七、八十騎の敵が西へ急ぐのが見えた。
それを目がけて、矢を射浴びせ、また、声を限りに 「返せ」 と呼ばわり、 「後ろを見するは
卑怯
(
ひきょう
)
ぞ」 とののしったが、敵は、振り向きせず、一矢も射返して来るふうはない。
「いよいよもって、奇功をいそぐ敵とみゆるぞ。一ノ谷へ、
懸
(
かか
)
らすな」
越中前司は、躍起となった。
ところが、ちょうど、その時、味方ののろし山から、のろしが揚がった。一ノ谷に近い峰にも、また振り返ると、生田の方にも、その黄いろっぽい色が、
狐
(
きつね
)
の尾みたいな煙の
痕
(
あと
)
を、いつまでも空に消え残していた。
「すわ?」
思わず、越中前司は駒をとめた。
源氏の進攻は、ここ一箇所ではない。生田口にも敵が寄せ、一ノ谷にも、異変があるものと思われる。
「やや、明泉寺の上、蛙岩の辺りにも、あれあのように、源氏の旗のぼりが、おびただしゅう見えまするぞ」
白々と明け放れて来ると共に、初めて、それが眼にはいった。── 義経がそこに施しておいた擬兵の陣とは、とっさに思いつくはずもない。
「しまった、あれこそ、敵の本軍」
釣られたと、気がついたのだ。
越中前司は、にわかに、味方を引っ返した。兵もいない偽計の白旗へ向かって、
対峙
(
たいじ
)
をととのえ出したのである。
そして、弓唸りを発し、
喊声
(
かんせい
)
と殺気をあげて、およそむなしい精力をかなり
消耗
(
しょうもう
)
した
挙句
(
あげく
)
、やっと、
「はて、おかしい?」
と
覚
(
さと
)
ったころは、もう大事な機は逸していた。
一瀉千里
(
いっしゃせんり
)
に、鵯越えを駆け下した義経の軍は、すでに
三位
(
さんみ
)
通盛
(
みちもり
)
の備えを、坂上から押しくずし、さらに、能登守教経の二陣へと激突していた。
著:吉川 英治 発行所:株式会社講談社 ヨリ
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