〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻

2013/12/05 (木) みち もり た れ (一)

義経は、なお、動かなかった。
あるかぎりな源氏の旗幟はたのぼり を付近一帯に立たせ、擬兵の計を設けて、刻々を、過ごしていた。
弁慶、佐藤兄弟、伊勢三郎、那須大八郎、伊豆有綱、金子十郎、鎌田正近、片岡経春など、いわゆる義経が子飼いの郎党たちは、気が気ではなかった。
まだ暁闇ぎょうあん は濃いにしろ、火合図は見えたし、こく もはや近い。
「このうえ、何を待たれるのか」
と、疑っていると、やがてのこと、さきの七十騎について、何か見届けの行った亀井六郎の物見の小隊が、息を切って、引っ返して来た。
「六郎か。明泉寺みょうせんじ の敵はいかに」
待ちかねていたらしい義経の声に。
「されば」
六郎は、遠くにひざまづき ──
「御明察にたがわず、お味方の七十騎が、近くを駆け抜けるやいな、明泉寺の陣所にて、どっと、敵のどよめきと、驚きの様子が、手に取る如く聞こえました」
「では、知ったな」
「見張りの兵が、すぐ急を告げたのでしょう。敵は寝耳に水の驚きをなし、馬よ、得物よと、あわて騒いだもののようで」
「して、その敵勢は」
「たちまち、先を争って混み出して来た敵は何百騎とも知れず、続々、絶え間もなく続き、さきの七十騎を追っかけて参りました」
「よし、思うつぼ」
義経は初めて、自己の進路に、眉をあげて、
「ここ鵯越えの本道は、夢野ノ里へ一里余り、おおむね、坂は降りなかりぞ。── 明泉寺にある平家は、さきの七十騎のうちに、義経やあると思い惑うて、西へ追っかけ去り、さだめし、後にはあわてにわてふためかん。── われらは、その虚を突き、刈藻川に添うて無二無三、敵の二陣三陣を踏み破りつつ輪田ノ浜まで一気に行くぞ。── いざ、義経の前を駆けよ。義経におくるるな人びと」
と、無数のらんらんたる眼へ言った。
期せずして、こたえは、
「─── わあっ」
と、一つ武者 えになり、約四百騎、奔流のように、いわゆる鵯越えの本道を、坂落しに駆けきそ った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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