じっと、息をつめたまま、彼が、特に凝視していたのは、輪田ノ岬の一端
── チラ、チラと漁 り火び
ともまがう船かがりと、そして朝の炊煙すいえん
らしい気配をけむらせている数知れぬ兵船の群れだった。 模糊もこ
たる視界も、いつか眼が馴れて来たものか、あるいは、秒々をきざむ間にも、天地が明るみかけてきたものか。 遠い海原もやや色を呈しそめ、夢野や奥平野の岡の起伏や、また、ずっと近い左方の再度山ふたたびさん
だの諏訪山なども、何か、その形象をあざらかにし出していた。 「オオ、小鳥が啼な
く」 「卯う ノ刻こく
は、はや、まぢかいぞ」 たれもが、きっとなった。どこか、はるか谷間の底で、一鳥いっちょう
が啼いた。とたちまち、遠方此方おちこち
、囀さえず らない木々もない。 すると、そのころだった。再度山か諏訪山かの上に、意味ありげな一点の火が見えた。 ──
かねて義経がはい進ませておいた雑兵が、生田口とこことの間に、約束の火合図を振り抜いているものとみえる。 義経は、それを認めると、すぐ、 「時こそ、近づいたれ、面々、心支度はよいか」 と、一同のうえへ告げ渡し、 「まず、先陣七十騎は、義経に先んじて、右の小道を、白川の谷へ下り、妙法寺を駈け、多井畑たいのはた
より鉄拐てっかい ヶ峰みね
をこえ、敵の一ノ谷を真下にのぞく所へ出でよ。そして、そこの絶壁より平家の真っただ中へと駆け下ろせ。── たれにてもあれ、命も惜しからじと思うほどな者は馳は
せ向かえ」 と、命令した。 ことばの下に。 岡部六弥太忠澄、佐原さわら
義連よしつら 、三浦義澄、鈴木重家などの東国武者たるの名を誇る面々は、
「われ行かん」 「それがしが参らん」 と、争って前へ出た。 「やあ、多勢は無用」 と、義経は制して、 「── 多井畑より先、鉄拐ヶ峰をこゆる道は、おそらく、駒も行き悩もう。それになお」 と、ことばに力をこめ、 「ここを出て、まもなき途中に、敵の陣地、明泉寺がある、──
明泉寺にあるは、この方面の主将三位通盛卿の兵、附近にはまた、能登守教経どのの備えもあるとか。・・・・いかに、駒を忍ばせ行くも、そこの敵には知られずにはおるまい」 「・・・・・・」 「──
が、敵の追躡ついじょう に会うとも、矢を返すな。追わば追わせて、ただひた急ぎに、一ノ谷の裏山へ出よ」 「・・・・・・」 そしてまた
── この義経は」 四百余騎が、一つもののように、ひしと、肌をひきしめて、ひそまり合った。 「義経は、残る手勢を連れて、ここより真南へ鵯越えを駆けくだし、夢野、刈藻川かるもがわ
すじの敵兵を蹴散けち らしつつ、輪田ノ岬へと、わき眼もふらず、真っすぐに、突き進もう」 「おお、ではわが殿には、輪田ノ海へ」 「されば、平家が本営はそこと見たゆえ、義経こそは、他へ眼もくれず、ただちに、敵の核心かくしん
を突く所存ぞ。── 見よや人びと、輪田ノ浜は、この鵯越えの真ま
ん南、一ノ谷よりも生田よりも、はるかに近く、すぐ眼の下ともいえるものを」 義経の語気とその眸ひとみ
は、もう、敵本陣を馬蹄ばてい
の下にして、浜のお座船ざふね
と賢所かしこどころ の神器をも掌て
に占めたような確信にみちているかに思われた。 けれど ── そこへ至近距離には、当然敵も幾段もの陣を重ねて、自己の中核ちゅうかく
を守りかためていることは、疑ってみる余地もない。 で、義経は、明泉寺の敵を惑わすため、わざと、ここで分けた七十騎の先頭に 「義経あり」 と、思わすように、名だたる東国武者をえらび、また自身の大将旗や母衣ほろ
など授け、 「いざ行け、人びと」 と、励ましたものだった。そして、 「義経が、敵中を駆けて、浜辺へ出るころ、土肥実平や熊谷なども、一ノ谷の西木戸を破り、蒲殿かばどの
(範頼) にも、生田口を破って、いちどに福原へ攻め入るであろう」 と、何度も作戦の骨子を説明して、その七十騎を白川谷の横道へと、急がせた。 |