星の光はまだ鮮
らかである。 卯う ノ刻こく
(午前六時) には、なお、だいぶ間があることがわかる。人馬四百の列は、黙々と鵯越えへ接して行った。左右の厚い山波は黒々と影を重ね、前方の一天だけがやや展ひら
けて見える。 この辺、岩山の荒い土質とちがい、石ころがなく、馬の蹄ひづめ
が傷いた む惧おそ
れもない。また道こそ狭いが、駒が一列二列と行くには困難なほどでもない。 ただ、時によってその小道が、灌木帯かんぼくたい
の茂みに消えていたり、大樹の横枝にさえぎられて、おりおり、騎馬の行きよどみを見せるくらいのものだった。 「行く手へ心を逸はや
って、うかと、駒の手綱を怠るな。口輪の食は
みに心せよ」 義経はときどき、前後の武者へ注意した。 馬の気を読むことを、騎乗者は “鞍味くらあじ
” というが、馬も騎乗者の気持をすぐ覚るものだった。── で、人の気魄きはく
が馬に移ると、馬はしきりに口輪を噛かく
み鳴らし、食は み懸がか
りを起こすやいな、向こう見ずに暴走して止まらないことが少なくない。 対陣の場合も、潜行して進む場合も、馬の逸走のために、全作戦が覆くつがえ
される惧おそ れさえありうるのだった。だから、徐歩じょほ
をそろえて、全体がゆるやかな駒足を保って行くのはやさしいようでやさしくない。心は張りつめながら、馬も人も、じっと、それを矯た
めつつ進むのだった。 「半里は来た」 と、たれかがつぶやくと、 「あと半里」 とまたたらかが言った。 まもなく、進路の先が、広やかに、歩の明るく、そして峠の線が、くっきりと見えてきた。そこに立てば福原、輪田の磯までも一望され、道も降くだ
りばかりといってよい鵯越えの坂一筋だ。 「や、海がかなたに」 「海が見ゆる」 「夜が明けなば、生田、夢野、輪田、須磨の磯までも、一目であろうず」 口々に言い合うそばへ、後から後から他の騎影もひしめき立った。 「弁慶。駄五六とやら申す者、もいちどこれへ引いて来い」 義経の言葉に、 「おん前に」 と、弁慶はすぐ彼を拉らつ
して、義経の駒わきに、ひざまずかせた。 ほとんどまだ何も見えない未明の視界だが、義経は、その渺びょう
たる天地を前にして、 「そちのいたという宇奈五うなご
ノ岡おか とは、どの方角になるか。明泉寺はどの辺ぞ。──
また、一ノ谷は? 輪田ノ岬は?」 と、いちいち問いただした。 そして、それに答える駄五六の指先へ、ともに眸ひとみ
をやって、幾たびもうなずいていた。今はもう、平家の諸陣地から、その位置、距離、表裏ひょうり
の構えなども、わが掌て をさすようなものだった。 |