直実
父子は、後ろの馬混みの中から 「── おうつ」 と高らかな声で、弁慶にこたえた。 椅鹿寺はしかじ
の作戦評議のときから、先の平山武者所と同様に、熊谷父子にも、百騎を持って行けと、先鋒せんぽう
の命が下っていたのである。そして、その目標も土肥実平や平山李重ひらやますえしげ
とおなじ一ノ谷であった。 初め、義経も、この藍那あいな
まで来てみるまでは、 「敵の本陣地は、そも、いずこか」 を思い惑い、 「地形からみても、一ノ谷よりほかにない。さしずめ、主上の行宮も、かしこの嶮けん
にあらん」 と察し、また、確信ももっていたふうだった。 が、敵地へ近づき、刻々の偵報も集まってくるにつれ、その想定は、一歩ずつ変わって来た。 わけて、駄五六から聞きえた新たな事実は、一ノ谷を本陣と見た彼の作戦図を、根底からあらためさせた。──
過ぐる四日の故入道の法要さえ、海上で営まれ、主上はなおまだ輪田ノ岬のお座船においでのままであるという。 「みかどが、一ノ谷におわさぬからには、総大将宗盛、一門の老将、みな玉座をめぐって、船上にあることは疑いない」 こう、義経自身の眸ひとみ
は、一ノ谷から輪田ノ岬へと、移っていた。 彼には、胸に秘めている大目標があった。戦に勝つ以上な使命とすら重くみていた。 それは何かと言えば、三種の神器を、平家から奪と
り上げる ── そのことである。 今度の一戦に、後白河法皇が、凡下ぼんげ
ですらも恥じてなしえないような騙だま
まし討ち同様な詐計さけい をめぐらし給うて、躍起やっき
となっておいでになるのも、後白河が、源氏びいきであるからではない。それほどまでに平家が憎いからでもない。 ただただ、お望みは、三種の神器をつつがなく、取り還かえ
したい。それだけの御願望なのだ。 べつに、後鳥羽ごとば
天皇をお立てになって、依然、朝廷のかたちと、院政の権は示しておいでになるが、天皇家相伝の神器の受譲じゅじょう
がなくしては、正しい即位でないことはもちろん、いわゆる天日嗣あまのひつぎ
を受け継ぐ君とは言えないのである。 ── だから、後白河としては 「是が非でも」 というお気持が、この一戦にかかっている。 範頼、義経らへ対しても、 「必ず、それを得え
て来こ よ」 という特命があったのはいうまでもない。 要するに、この一戦は、源氏としては、平家を亡ぼすことだが、院としては、あながち、平家滅亡が望みではない。
「神器奪還の軍いくさ 」 たることが、源氏へ委嘱いしょく
された本来の使命であった。 秘勅を奉じて、義経も、 「いかにせば、無事に、神器を」 と、心をくだいているのである。 敵陣への一番駆けや、大将首を狙ねら
うことなどは、その功名を、初めから最大な目的として従軍して来た東国武者の争いにまかせ、それを自分や、自分の直属の郎党が、あばき合うべきではあるまい。 ──
で、三草みくさ からは、土肥実平をまず大迂回だいうかい
させ、つづいて平山李重を放ち、今また、熊谷次郎直実、直家の父子を、藍那の間道から一ノ谷へ向けて、 「一ノ谷が、さいごの主戦場ではないぞ。かしこの敵をおことらが攻むる間に、われは輪田ノ浜へ出て、主上のお座船を乗っ取らん。おことらも、須磨すま
の磯を伝うて、駒ヶ林より輪田の水際みずぎわ
へ駆け合えよ」 と、秘かに言い含めたものだった。 かくて八百余騎が、播磨路から明石口へまわり、あるいは途中から別れ別れに一ノ谷へ縫ってゆき、義経の手もとには、二百数十騎しか残っていない。 だがまた。 古市から東の山岳地をまわって、ここへ出て来た多田行綱の百余騎が、義経と合流したので、あらまし四百余騎にはなった。 「この四百騎」 義経は、あらためて、わが麾下きか
を見まわし、また、北斗ほくと
を仰いで、 「鵯越ひよどりご
えまで、正しくは、あと何里ぞ」 と、あたりへ言った。 「はや、一里」 答えは遠くでした。列の前にある弁慶の声らしく、そのそばから駄五六と鷲ノ尾三郎の顔が、義経の姿を振り仰いでいた。
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