〜 〜 『 寅 の 読 書 室 Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻
2013/12/04 (水)
三
(
み
)
草
(
くさ
)
落
(
おと
)
し (六)
これまでに途中、もっとも信じられた案内者といえば、山中の一軒家を見て、そこの老夫婦から、弁慶が乞い受けてきたという十七歳の小冠者だった。
柿
(
かき
)
の着物に、おなじ色の
山袴
(
はまばかま
)
、
足半
(
あしなか
)
を
穿
(
は
)
き
猿皮
(
さるかわ
)
の
靱
(
うつぼ
)
には、手造りの矢をたくさん差しこんでいた。そして素足、山刀という身なりで、義経の前に
畏
(
かしこ
)
まったものである。
名はと訊けば、名はないという。
何番目の子ぞと問えば、ただ、三番目なりと答える。
義経は心のうちで 「わしも、
鞍馬
(
くらま
)
に居た頃は、こんな
童
(
わっぱ
)
であったろうか」 と思い、そぞろ、その純朴さが、愛らしくもなって、 「わしの一字を、名乗りにくれよう。──
鷲
(
わし
)
ノ
尾
(
お
)
三郎経春
(
さぶろうつねはる
)
とよぶがいい」 と、言った。
三郎は、眼をまろくした。
周囲の人びとからは 「破格なことだ」 と、祝福され、どう答えていいか、分からない顔つきだったが、うれしかったには違いない。
道しるべは、彼一人で充分なほど、よく働いたし、また、その言にも、信頼がもてた。
しかし、鷲ノ尾三郎も、平軍の配備までは、分からなかった。その点、駄五六が捕まったのは、一つの偶然が、さらに義経の行動を幸いしたものと言える。
やがて、軍は再び前進を起こした。
駄五六と三郎ははるか、その先頭を、歩いて行く。
三郎は、すぐ
馴々
(
なれなれ
)
しく、声をかけた。
「おい、小者のおじさん」
「なんだい」
「何を、ため息ばかりついてるんだんね」
「聞こえたかい」
「そんな泣きっ
面
(
つら
)
をして、ぶつぶつ言いながら歩くのはおよしよ。今に、流れ矢に当ってしまうぜ」
「ち。縁起でもねえことを言いやがる」
「だって、おじさんの面は、まるで
梟
(
ふくろ
)
がベソをかいているようだぜ」
「なんとでもぬかせ。面などは、どうでもいいわい。ああ、ままにならねえもんだのう。こんなことになるなら、いっそ、逃げ出さなければよかった」
「どこから逃げたのさ。いったい」
「福原からよ」
「じゃあ、平家か、おじさんは」
「平家も源氏もありゃしねえよ。おらあ、ただの雑兵だ」
「雑兵だって、平家の
糧
(
かて
)
を食っていたくせに、どうして、平家を裏切ったんだね。見下げ果てた人間だな」
「なんだと、この
山猿
(
やまざる
)
め」
「山猿だって、そんなことをすれやあ、仲間の猿や親猿に、キュウキュウの目にあわせられるぜ」
「それでも、猿は親子夫婦、いつも一緒に暮しているだろう。てめえなぞは、大ばか者だ。せっかく、親子一つに暮していたものを、もの好きに山を出やがって、いまに後悔するな」
「ばかと言ったな」
あわや、案内者同士、取っ組み合いになりかけた。
さっきから、おかしげに、後ろで笑って見ていた弁慶も、これにはあわてて、馬を飛び下り、両方の手に、二人の襟がみを、つかみ分けた。
「これ、
喧嘩
(
けんか
)
は早いぞ。もう少し待て、やりたければ、やがて平家を相手に存分にやれい」
「もう、いたしませぬ」
駄五六は、首をすくめ、その首の根で、辺りの闇を見まわした。
「・・・・あっ、ここはもう
藍那
(
あいな
)
だ」
「藍那とは」
「鵯越えの北の坂口で」
「や、ではこれより先が、はや鵯越えとよぶ
切所
(
せっしょ
)
か」
弁慶は、二人を離して、
「熊谷どの、熊谷どの御父子。ここぞ鵯越えの北、藍那と申すところの由。お支度はよろしきや。はや、お手勢を分け、間道へ駆け向かわれよ」
と、後ろへ向かって呼ばわった。
著:吉川 英治 発行所:株式会社講談社 ヨリ
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