その日は、五日。 三草から東南一里半ほどの、椅鹿寺
に宿営し、翌日まで、まったく、鳴りをひそめていた。 馬のいななきにも、兵糧ひょうりょう
の炊煙にも、心をくばって、義経は、 「なお、鵯越えまでは六、七里と申すが、敵も物見を出しておろう。またふと、山家の者や旅人の通いもないとは限らぬ。──
敵に覚られては、一期いちご の悔いぞ。道という道、たとえ鹿しか
や猿さる の通かよ
い路じ とて、油断すな」 と、八方へ、見張りを立てた。 なお要所には、数理の先まで、小隊を派しておき、ここの一脈の山岳地帯と、人里との境を完全に遮断しゃだん
した。 さらに。 里近い再度山ふたたびさん
などの峰々へも、歩兵を伏せ、その者たちには、生田方面を見まもらせて 「万一、異変いへん
が見えたらすぐ知らせること」 と命じおき、また 「範頼どのの味方の勢が、つつがなく、敵へ懸かると見えたら。煙を揚げよ」 と、火合図を、いいつけた。 そうした万端の用意と、休息とに、約一昼夜を、過ごしたうえ、
「いで、行かん」 と兜かぶと
の緒お を締め、弓に弦つる
をかけ、列の間々に松明を振らせ、義経以下五百余騎が、一筋の流れをなしつつ、鵯越えへ向かったのは、まさに六日の宵だった。 ── その椅鹿寺を立つとまもなく、 「さらば、さらば。──
あすの戦場で」 と、またも約百五十騎ほどが、本軍を離れ、弓を振り上げ振り上げ、道を曲がって、吉井から明石方面へと、南下していった。 平山武者所ひらやまのむしゃどころ李重すげしえ
と、成田家正の二将が、べつな道をとって、一ノ谷の木戸へ潜行したものと、あとでは分かった。 |