義経は、すぐ仮の幕
へ、諸将を呼んで、群議を開き、まず一同へ、こうたずねた。 「やよ人びと、三草みくさ
へは西へ二里。夜討がよいか、朝討ちがよいか」 すると、土肥どひの
実平さねひら 、田代冠者信綱など、ほとんどが、異口いく
同音に答えた。 「なんの御猶予」 「人馬も休め申したうえは」 「夜討こそ、しかるべきかと存じまする」 義経は、うなずいて ── 「さらば、すぐ、踏み散らして、押し通ろうぞ」 と、起た
ち上がった。 黒い気流に似た千余騎が、やみ夜をさぐりながら、山の平原を進んで行った。 途中、安田義定は、義経のそばへ寄って来て、さり気なく、話しかけた。 「最前、夜討か朝討ちかとの、おたずねを出されましたが、九郎の殿御自身には、どうお考えだったのでござるか」 義経は、ちらと、兜かぶと
の眉廂まびさし を、振り向けた。 そして、義定の顔を、じっと見た。 この義定もまた、梶原景時と同じ資格で、兄の頼朝が、軍目付に付けて寄こした人物である。 「いや、もとより九郎も、初めから、夜討の所存ではあった。けれど、一義も二義も、衆議に出して、皆に、味わわせることが、軍いくさ
の古法と申すもの」 「・・・・げにも」 と、義定は、ひざを打った。 そしてひそかに、「器量きりょう
ある大将かな」 と感じ、 「へたな口出しは出来ぬ」 とも思った。 三草山の西に陣していた平家の一軍は、この予測もせぬ敵の出現を見て、まったく、混乱に落ち、もろくも、源氏の馬蹄ばてい
に蹴散けち らされた。 資盛、有盛以下、さんざんな姿を持て、河東郡の山づたいに、西へ西へと逃げ落ち、播磨はりま
の高砂から、船に乗って、 「味方に会うも面目なし」 と、屋島へ渡ってしまったとある。 ふぁが、いかに若い資盛、有盛、師盛などの公達勢にしろ、ただ
「面目ない」 とばかりで、福原の味方へも合流せず、屋島へ帰ってしまうはずはない。 おそらく、一ノ谷か生田方面へ退いて、そこの味方と合流しようとしたには違いなかった。しかし、そうさせては、義経として、せっかくの奇襲が、未然に敵方に知られてしまう。 で、彼は、矢つぎ早に、下知した。 「敵の一人たりとも、鵯越え道へ、追い逃がすまいぞ。三草と久米の追分を断って、播磨の方へと追っ払え」 そして、その方面の道を塞ふさ
がれた平軍が、ぜひなく、播磨路の山を、なだれ打って潰走かいそう
し出したのを見て、義経はすぐ、 「あの逃げ足に、息をつかすな」 と、土肥実平、田代信綱の二将に、兵力の半ばを割さ
いて与え、 「かねて申し合わせた日と時刻は、存じおらん。和殿らは、かの中将殿や小松殿の兵をあくまで追いながら、明石の磯辺より一ノ谷の西木戸へ討って出でよ。ゆめ、途中の功にかかずろうて、大事な刻限を誤るまいぞ」 と、厳命した。 二人は、かしこまって、 「さらば、お別れ申して、七日の暁あかつき
には、ふたたび、敵の中にてお姿を拝しましょうず」 と、新たに組んだ一隊を引き連れ、そのまま、西へ向かって進軍をつづけて行った。 ── いつか天地は朝となっている。 敵の首級百八十人をかぞえ、 「さい先よし」 あとに残った本軍も、奮ふる
い立った。そして、 「いよいよ、平家の本陣地福原に、ほど近いぞ」 ト言い交わしつつ、将士の眼には、もう、おたがい底光りが、ぎらぎらしていた。 |