しかし、この間にも、休みのない活動をし始める小隊もあった。 亀井六郎、片岡為春などを頭
とする物見組であり、彼らは、腰兵糧こしひょうろう
をつけて、すぐ西方二里ほど先の三草山みくさやま
の谷や高地へ探りに入った。 ここに、半夜の露営を結んでいると、土地ところ
の郷士たちが、 「お味方に」 と集まって来た。古来、源氏に縁のない土地ではない。 「それがし事は」 とか 「わが家は」 とか、それぞれ、古い由縁ゆかり
を述べ立てるが、義経は、 「好んで死にたいという者はあるまい」 と、おおむね、笑い顔でうけ、 「荷駄にだ
を引いて、軍の後しりえ について参れ」 と、許すのみで、先鋒せんぽう
や道の案内には、用いなかった。 具足も解かぬ草枕の一睡は、つかの間の心地だった。 やがて、物見組も、前後して、立ち帰り、 「三草みくさ
には、中将資盛どの、小松有盛どの、その他の公達ばらを主将に、およそ兵二千ほどが、柵さく
を守り固めておるやに見られまする」 という者。 また、中には、もっと詳しい報告もあった。 「敵は怠っておりまする。もしや、偽計をかまえて、見せかけの、わざとな油断ではないかと思い、柵内へ忍び入ってみましたところ、大将の陣幕とばり
の内より、香こう の煙が流れ、悲しげな管絃かんげん
の音ね も聞かれました。察するに、こよい二月四日は、故入道清盛どのの御忌ぎょき
なれば、その法会ほうえ など、営いとな
みおるやにうかがわれまする」 「・・・・・まことに、今宵は四日」 義経は、ふと、瞼まぶた
をふさいだ。 敵のこととも思われぬ傷いた
みを、覚えずにはいられない。 それに。 院の秘策として、都からは、四日は故入道の遠忌おんき
ゆえ、源氏も合戦には出まいという風説を、故意に流している。 要するに、だまし討ちだ。 義経の寝醒ねざ
めの面に、どこか冴さ えない色が見えたのは、そのせいであろう。何事につけ、ひとの身になって物を思う彼の性情が、ふと、破竹の意気を、つまずかせたものらしい。 だが、そんな仮借かしゃく
や同情は許されなかった。 院の秘策は、 (七日の卯う
ノ刻こく <明け方、六時>
をもって、一せいに、福原へ攻め入る時刻となせ) と、伝えて来ている。 生田へ向かった主力軍の範頼のりより
も、もとよりその内示に従って、生田ノ木戸へ、総懸がか
りを起こすであろう。 もし、手はずを狂わせたら、搦手からめて
の自軍も死地に陥おちい るばかりでなく、全源氏の敗れをきたすことはいうまでもない。──
義経もまた、万難を排して、その日、その時刻に、鵯越えから、敵の真上へ、奇襲の功を、示さなければならないのである。 |