ここで物語りは、幾日かを、さかのぼる。 そして源氏方の動きに眼を移すならば
── 過ぐる二月三日の夜半、義経の奇襲隊は、洛外
大江山を立ち、一路、平家の盲点の地を目指して、しでに丹波路を急いでいたわけである。 また、おなじ夜。 主力の蒲冠者かばのかじゃ
範頼のりより は、義経とは逆に、摂津平野へ伸び出で、生田いくた
方面へ、進んでいた。 ── 明けて、次ぎの日は四日である。 四日といえば、兵軍の大部分は、なおまだ、輪田ノ岬の海上にあった。 特にその日は、平家一門にとり、忘れ難い、故太政入道どのの命日でもあったから、夜は、一船を香華の座ざ
とし、涙ながら、波間の法要をいとなんでいたほどだった。 ところが、その間にも、東国勢ふた手の尖兵せんぺい
は、一挙に、平軍の肺腑はいふ
を突くべく、駸々しんしん 駒こま
を進めていたのである。 ── とは夢にも知らない平家であった。 あまつさえ。 平家はその将士を陸にあげ、陣地につくやいなや、突如、平和の交渉にまどわされた。 院の御内意、公卿親信ちかのぶ
の御使いなど、疑おうにも、疑いようのない事実なのだ。 しかも、八日までは、源氏方に対しても、武力に出ることは、一切禁じおかれたという条件付の御内意でもある。 で、平家は、勅をかしこみ、法皇の御心を信じて、八日を待った。 休戦の約を守っていたわけである。 おろかな、平家。 あわれなる平家。 どういった方が、正しいのか。 ともかく、彼らにとっては、計はか
る事の出来ない、また取り返しのつかない事態は、こうした空間に、刻々、近づいていたものだった。 義経の一千余騎は、丹波路の亀岡、園部、篠山ささやま
などを昼のうちに駆け抜け、四日の夕方には、南丹波の ── もう播磨境はりまざかい
に近い ── 小野原 (現・多紀郡今田町) についていた。 「迅はや
かった。よくぞ来たもの」 義経は、左右の郎党たちへ、たずねた。 「── 大江山から、およそ幾里」 「二十里はございましたろう」 「では、二日路ふつかじ
を、一昼夜で来たことになる。馬も人も、疲れたろう。食うて、眠るが先ぞ。みな休め」 |