〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻

2013/12/01 (日)  くさ おと し (一)

ここで物語りは、幾日かを、さかのぼる。
そして源氏方の動きに眼を移すならば ──
過ぐる二月三日の夜半、義経の奇襲隊は、洛外らくがい 大江山を立ち、一路、平家の盲点の地を目指して、しでに丹波路を急いでいたわけである。
また、おなじ夜。
主力の蒲冠者かばのかじゃ 範頼のりより は、義経とは逆に、摂津平野へ伸び出で、生田いくた 方面へ、進んでいた。
── 明けて、次ぎの日は四日である。
四日といえば、兵軍の大部分は、なおまだ、輪田ノ岬の海上にあった。
特にその日は、平家一門にとり、忘れ難い、故太政入道どのの命日でもあったから、夜は、一船を香華の とし、涙ながら、波間の法要をいとなんでいたほどだった。
ところが、その間にも、東国勢ふた手の尖兵せんぺい は、一挙に、平軍の肺腑はいふ を突くべく、駸々しんしん こま を進めていたのである。
── とは夢にも知らない平家であった。
あまつさえ。
平家はその将士を陸にあげ、陣地につくやいなや、突如、平和の交渉にまどわされた。
院の御内意、公卿親信ちかのぶ の御使いなど、疑おうにも、疑いようのない事実なのだ。
しかも、八日までは、源氏方に対しても、武力に出ることは、一切禁じおかれたという条件付の御内意でもある。
で、平家は、勅をかしこみ、法皇の御心を信じて、八日を待った。
休戦の約を守っていたわけである。
おろかな、平家。
あわれなる平家。
どういった方が、正しいのか。
ともかく、彼らにとっては、はか る事の出来ない、また取り返しのつかない事態は、こうした空間に、刻々、近づいていたものだった。
義経の一千余騎は、丹波路の亀岡、園部、篠山ささやま などを昼のうちに駆け抜け、四日の夕方には、南丹波の ── もう播磨境はりまざかい に近い ── 小野原 (現・多紀郡今田町) についていた。
はや かった。よくぞ来たもの」
義経は、左右の郎党たちへ、たずねた。
「── 大江山から、およそ幾里」
「二十里はございましたろう」
「では、二日路ふつかじ を、一昼夜で来たことになる。馬も人も、疲れたろう。食うて、眠るが先ぞ。みな休め」

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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