〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻

2013/11/30 (土) 天 馬 の 火 (二)

「何者」
すぐ、わらわらっと幾筋もの松明が、彼のまわりへ寄って来た。
火のこぼれが、えり もとへでも落ちたのか、駄五六は、飛び上がりそうにした。
「うぬ。物見だな」
弱腰を られ、駄五六は、他愛もなく、ひっくり返った。起き直りながらも、
「おゆるしを、お見のがしを」
そればかりを、まわりへ、わめいた。
この軍勢を、彼は、三草山みくさやま にある味方とのみ思い込んでいたらしい。しかし、襟がみをつかまれて、
「なんじは、平家の小者であろう。どこに陣所をおく大将の物見か。じつを申さぬと、そっ首が飛ぶぞ」
おど され、初めて、はっと気がついた。あらためて、まわりの騎馬群を見まわした。
どれ一つ見覚えのある顔もない。
第一、武者装いが、どこか違う。
よろいとじはな おどし、もえぎ、こん山吹やまぶき などの種々さまざま なのは、平家武者にも見馴れているが、馬具や太刀は、平家ほどには、きらやかでない。螺鈿らでん のちりばめや黄金こがね の飾りもなく、かぶと分厚ぶあつ く、いかにも鉄騎鉄甲の兵といった感じである。
「や、や。あなた方は、源氏の衆で」
仰天とともに出た声だったが、とたんに、その頬へ、武者の手が鳴った。
「とぼけるな、何を探れと、命じられたか。一人ではあるまい。ほかの物見仲間は、どういたした」
「ぞ、ぞんじませぬ。まったくもって」
「だまれ、どう隠そうと、なんじは、平家の小者に相違なかろう」
「それには相違ございませぬが」
「たれの手の者だ」
「若狭守様の」
「若狭守」
ちょっと、分からない顔をして、一人がほかの顔を見まわすと、べつな武者が、
「それよ、平家の内でも、名だたるお人、参議経盛の次男、若狭守経俊どののことであろうが」
「へい」
「陣所は、どこぞ」
宇奈五うなごおか でございまする」
「いちいち分からぬな。宇奈五とは、どこ」
「これから四里、鵯越ひとどりご えを下りつめて、夢野ノ里へ出た所の一つの岡で」
「物見には、幾人で出たのか」
「なんの、なんの」
駄五六は、懸命に、手を振って、
「決して、そんな役を、申し付かってはおりませぬ。まったくは、陣抜じんぬ けした者でございまする。故郷の嬶や子の顔が見とうなり、矢もたてもなく、味方の陣所を捨て、これまで、逃げて来た途中なのでござりまする」
こう臆面おくめん もなく言えるのも、また、それが相手に信じられたのも、名もない雑兵なればこそだった。
彼が脱走の小者に違いないことが認められると、武者たちは、後ろへ向かって、
「やあよい者を拾うたぞ。よい者を引っ捕えたぞ」
と、口々に告げた。
手綱をしぼって、こまはや りを抑えていた後方の列は、こころもち、列を前へ進めて来た。
そして、中なる一人が、
「武蔵坊」
りんと、張りのある声で ──
「あれにて、陣抜けの兵を、捕えたとか申しておる。はや鵯越えは数里の先、しかも、時刻はまだ間もあれば、その男より、敵地の模様、備えなど、つぶさにただ して、道案内の一人に加えて行くもよからん。後につづく面々へも布令ふれ いたせ。しばし、駒を休ませよと」
命じ終わると、まず彼自身、ザクと、鎧響きをさせて、あぶみから下りた。
さして、背も高くない小柄な大将。あきらかに、その人は源九郎義経だった。
弁慶は、その間に、とうとうと馬を後ろへ返しながら、列の末端の方まで、
「時刻はまだやや早い、鵯越にはいる北の坂口とやらもほど近い由。── 馬をも、身をも休ませられよ。しばし、休息せいとの御命なるぞ」
と、、伝令して駆けた。
── それを耳にすると、駄五六が、ぞっと、ふるえ上がった。
今宵は六日。
夜半を過ぎてもまだ七日だ。
全平家の、たれ一人とて、こんな光景が、北方の天から近づきつつあろうなどとは、夢にも知るまい。
八日には、平和の院宣使いんぜんし が、福原へ来ると、待たれているのだ。
そして、それ以前には、源氏の武力行動は、停止されるであろうから、平家もまた、つつしんで、勅を待つべしと、先触れの公卿書状もあったくらいである。弓も心のつる も外して、寝ころんでいる平家であろうことは疑いもない。
「・・・・ああ、よくぞおれは、逃げ出したもんだ。虫の知らせか、神の守りか」
駄五六は、今さらのように、武者の世界の地獄を知った。その地獄の修羅しゅら の寸前に、脱走して来た自分の幸運を思って、ぼろぼろうれし涙を垂れた。── が、考えてみると、これでもう一命が助かったという保証は何もなかった。火からのが れて、すぐまた、べつな火の中へ飛び込んだ夏の虫の命に似ていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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