〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻

2013/11/30 (土) 天 馬 の 火 (一)

部落があるのか、どこかで、にぶい牛の き声がする。
見まわしたが、灯影はない。しかし 「家があるな」 と、駄五六だごろく は思った。やぶ やら家やら分からない草屋根が、木蔭の闇に沈んでいた。
藍那あいな の山中から先、駄五六は、それ以外に人の気らしいものを がなかった。
ただ一ぺん、道を挟む背丈ほどな灌木帯かんぼくたい から灌木帯へ、カサッと、頭の上をすごい勢いで跳び越えた物があったきりである。それには彼も、ヒヤと腰を抜かしかけたが、考えてみると、山の動物にちがいなかった。それもうさぎ にしては大き過ぎ、いのしし にしては小さすぎる。 「・・・・・ははあ、鹿しか だな。鹿の奴こそ、おれの跫音あしおと に、びっくりしたのかも知れんわい」 と、わが小心しょうしん さに、おかしくなった。
よくもまあ、こんな臆病性のくせに、何十年もの間、武者奉公が勤まったものだと思う。しかし、性来の臆病者だからこそ、この年までも雑兵で来たのだろうし、雑兵でいたからこそ、まだ、生き長らえて来られたのかも知れないと考える。
「どっちにしろ、五分五分や。ただ、これからの何年でも、かか や子とともに暮せれば文句はない。・・・・だが、平家の御陣から げて来たといったら、かか はよいが、頑固がんこじじ は、不忠者めと、怒るだろうな。── ままよ、田舎の家もゴタつくようなら、かかじ や子連れて、都へ出、共稼ともかせ ぎで牛飼いやろう。牛飼いで食えなんだら、羅生門の仲間へ交じって、その日その日の風次第に ──」
駄五六は駄五六なりの空想にふけった。
「ここまで来れば ── 」 とつぶやき、一足一足、空想は、たの しかった。
「おや、淡河おうご だな。追手恐さに、いつのまにか、歩いたものだ。南の山は、丹生にぶ帝釈山たいしゃくざん 、むかし清盛公が御参詣ごさんけい のおり、御一門のお供について来た事もあったが・・・・。するともう、椅鹿寺はしかじ まで三里余り、三草みくさ まで行っても五里」
駄五六は、星を仰いだ。
「 ── まだ夜半には、だいぶ間がある」
悠々ゆうゆう と、大気を吸い、そして、それから一里も行かないうちだった。
「やっ? なんだろう。・・・・なんだろう、あれは」
ぎょっとしたように、彼は行く手の方角へ、眼をこらした。
部落の火にしては少し変だ。賊や猟人なら、あんな火の手を揚げはしまい。
ぼうっと、夜雲を染め、火光は、光度を強めながら、次第にこっちへ近づいて来る。
「オオ。た、松明たいまつ だっ」
一瞬、彼は動物的な眼をくばって、尻込みし出した。そして、かかとを巡らすやいな、元の方へ、一目散に逃げ出していた。
ところが、さっき通った時は、草木も眠っていたような淡河おうご の辺に、点々と人馬の影が見え、小手をかざしながら、何か、風の中で呼び交わしているふうだった。
「わっ、武者だ」
を失って、駄五六は、また、初めの方角へ、ツンにめるように舞い戻った。怪しまれたにちがいない。突然、中の一騎が、彼の影を追っかけて来た。
「南無三、いけねええ」
駄五六の影は、窮鼠きゅうそ に似ていた。
故郷の妻子の顔が、頭をかすめた。後ろからは、馬蹄ばてい の音、前からは、いやおうなく、おもて くばかりな数百の松明たいまつ と、まっ黒な人馬の奔流が、目の前へ迫っていた。
「た、たすけて、くだされい」
駄五六は、進退きわ まったように、ぺたと、地へすわり込んだ。
そして罪人のするように、地へひたいをすりつけたまま、とどろな馬蹄の音に、耳にあな をふさいでしまった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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