部落があるのか、どこかで、にぶい牛の啼
き声がする。 見まわしたが、灯影はない。しかし 「家があるな」 と、駄五六だごろく
は思った。藪やぶ やら家やら分からない草屋根が、木蔭の闇に沈んでいた。 藍那あいな
の山中から先、駄五六は、それ以外に人の気らしいものを嗅か
がなかった。 ただ一ぺん、道を挟む背丈ほどな灌木帯かんぼくたい
から灌木帯へ、カサッと、頭の上をすごい勢いで跳び越えた物があったきりである。それには彼も、ヒヤと腰を抜かしかけたが、考えてみると、山の動物にちがいなかった。それも兎うさぎ
にしては大き過ぎ、猪いのしし
にしては小さすぎる。 「・・・・・ははあ、鹿しか
だな。鹿の奴こそ、おれの跫音あしおと
に、びっくりしたのかも知れんわい」 と、わが小心しょうしん
さに、おかしくなった。 よくもまあ、こんな臆病性のくせに、何十年もの間、武者奉公が勤まったものだと思う。しかし、性来の臆病者だからこそ、この年までも雑兵で来たのだろうし、雑兵でいたからこそ、まだ、生き長らえて来られたのかも知れないと考える。 「どっちにしろ、五分五分や。ただ、これからの何年でも、嬶かか
や子とともに暮せれば文句はない。・・・・だが、平家の御陣から逃に
げて来たといったら、嬶かか はよいが、頑固がんこ
な爺じじ は、不忠者めと、怒るだろうな。──
ままよ、田舎の家もゴタつくようなら、嬶かかじ
や子連れて、都へ出、共稼ともかせ
ぎで牛飼いやろう。牛飼いで食えなんだら、羅生門の仲間へ交じって、その日その日の風次第に ──」 駄五六は駄五六なりの空想にふけった。 「ここまで来れば
── 」 とつぶやき、一足一足、空想は、愉たの
しかった。 「おや、淡河おうご
だな。追手恐さに、いつのまにか、歩いたものだ。南の山は、丹生にぶ
の帝釈山たいしゃくざん 、むかし清盛公が御参詣ごさんけい
のおり、御一門のお供について来た事もあったが・・・・。するともう、椅鹿寺はしかじ
まで三里余り、三草みくさ まで行っても五里」 駄五六は、星を仰いだ。 「
── まだ夜半には、だいぶ間がある」 悠々ゆうゆう
と、大気を吸い、そして、それから一里も行かないうちだった。 「やっ? なんだろう。・・・・なんだろう、あれは」 ぎょっとしたように、彼は行く手の方角へ、眼をこらした。 部落の火にしては少し変だ。賊や猟人なら、あんな火の手を揚げはしまい。 ぼうっと、夜雲を染め、火光は、光度を強めながら、次第にこっちへ近づいて来る。 「オオ。た、松明たいまつ
だっ」 一瞬、彼は動物的な眼をくばって、尻込みし出した。そして、かかとを巡らすやいな、元の方へ、一目散に逃げ出していた。 ところが、さっき通った時は、草木も眠っていたような淡河おうご
の辺に、点々と人馬の影が見え、小手をかざしながら、何か、風の中で呼び交わしているふうだった。 「わっ、武者だ」 度ど
を失って、駄五六は、また、初めの方角へ、ツンにめるように舞い戻った。怪しまれたにちがいない。突然、中の一騎が、彼の影を追っかけて来た。 「南無三、いけねええ」 駄五六の影は、窮鼠きゅうそ
に似ていた。 故郷の妻子の顔が、頭をかすめた。後ろからは、馬蹄ばてい
の音、前からは、いやおうなく、面おもて
を焦や くばかりな数百の松明たいまつ
と、まっ黒な人馬の奔流が、目の前へ迫っていた。 「た、たすけて、くだされい」 駄五六は、進退窮きわ
まったように、ぺたと、地へすわり込んだ。 そして罪人のするように、地へひたいをすりつけたまま、とどろな馬蹄の音に、耳に孔あな
をふさいでしまった。 |