〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻

2013/11/30 (土)  ざい しょう (三)

さっきから、御堂の床下に潜っていた駄五六は、
「── あっ、輿がお立ちだ」
と、あわてて、そこから飛び出した。
何食わぬ顔つきで、彼はまた、ここへ来た時のように、黙々と、女輿の道案内をして歩いた。暮れかかる山路を、幾めぐり、夢野ノ里へ下りかけた。
その間も、輿の内からは、たえずむせ び泣きがもれていた。 「もしものことでも?」 と案じるのか、乳人の老女が輿のそばへ寄っては、励ましたり、慰めたりしていた。
女のあわれさ、もののふのつら さ。さっきから、御堂の床下でも、駄五六はそれを、いやというほど、ぬす み聞きして、骨身にこたえていた。今はもう、輿に乗っている人の身の上ではなくて、自分の女房子、自分の身の上に思われていた。
「や、や、案内者あないじゃ 、案内者。── どこへはし るのじゃ。ただ一人で」
輿の供人たちは、突然な彼の行動にびっくりして、振り向いた。
何思ったか、先に立っていた駄五六は、急に、ふらふらっと、人魂ひとだま のように、輿の後ろへまわり、そして、怪しむ人びとの声もよそに、
「忘れ物いたしまいた、忘れ物を」
といったまま、後も見ずに、元の道の方へ、駆け戻って行くのだった。
たちまち、明泉寺の門前まで来たが、駄五六は、そこで足を止めるわけでもない。
さらに上へ、そしてゆるい傾斜を下り、やがてまた、いよいよ山深み行く坂道を、何かに かれたように、どんどん登りつめて行く ──。
「・・・・鵯越えだ」
いつか、彼のひたいは、汗に濡れ光っていた。
恐ろしい罪でも犯した人間のように、彼は、落ち着かない眼で、はるかな闇の底を、初めて、振り返った。
明泉寺の森が、無数のかがり火に浮いて、ぼうと明るい。
もっと、遠くの、低い闇には、宇奈五うなごおか の陣地の火が、チラと見える。
それから、さらに先の、果てもないびょう たる所は、海上に違いない。こよいも、漁火いさりび のような船かがりが、点々と、波間に平家の運命をとも している。── お座船に、大将船に、幾千艘の兵船に。
「ああ、あの中にゃ、おれみたいな臆病者おくびょうもの は、一人もいないのだろうか。・・・・だが、おれはもう、たれに何と言われようが、宇奈五ノ岡へは帰る気はせぬ。この先、乞食をしようが、かか や子どもと一しょに暮して死ねればいい。・・・・平和になると言っているが、ばァに、当てになるもんか。これまでだって、何度、和睦わぼく しかけたことか。朝にも晩の分からねえのが今の世の中だ。── 子どもの代まで、さむらい奉公をやめさせるには、こうでもして、人の笑われ者になるしかねえわい」
駄五六は、闇へ向かって、浩然こうぜん と言った。── 何者へも、はなからずに、思うことが思うまま、言えただけでも、彼には、解かれた者の絶大なうれしさだった。
── 寿永三年二月六日、駄五六は、こうして脱走の道を、ひた歩きに、夜通しはし った。
鵯越えは、約三里のあいだ、ほとんどが、ゆるい山路の坂つづきで、口一里、中一里、奥三里、やがて、高尾山の西のすそを藍那あいな へ出て行く。
もう、ここらは、高原の爽気そうき
彼以外は、ひとりの人間も見なかった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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