さっきから、御堂の床下に潜っていた駄五六は、 「──
あっ、輿がお立ちだ」 と、あわてて、そこから飛び出した。 何食わぬ顔つきで、彼はまた、ここへ来た時のように、黙々と、女輿の道案内をして歩いた。暮れかかる山路を、幾めぐり、夢野ノ里へ下りかけた。 その間も、輿の内からは、たえず咽
び泣きがもれていた。 「もしものことでも?」 と案じるのか、乳人の老女が輿のそばへ寄っては、励ましたり、慰めたりしていた。 女のあわれさ、もののふの辛つら
さ。さっきから、御堂の床下でも、駄五六はそれを、いやというほど、偸ぬす
み聞きして、骨身にこたえていた。今はもう、輿に乗っている人の身の上ではなくて、自分の女房子、自分の身の上に思われていた。 「や、や、案内者あないじゃ
、案内者。── どこへ奔はし
るのじゃ。ただ一人で」 輿の供人たちは、突然な彼の行動にびっくりして、振り向いた。 何思ったか、先に立っていた駄五六は、急に、ふらふらっと、人魂ひとだま
のように、輿の後ろへまわり、そして、怪しむ人びとの声もよそに、 「忘れ物いたしまいた、忘れ物を」 といったまま、後も見ずに、元の道の方へ、駆け戻って行くのだった。 たちまち、明泉寺の門前まで来たが、駄五六は、そこで足を止めるわけでもない。 さらに上へ、そしてゆるい傾斜を下り、やがてまた、いよいよ山深み行く坂道を、何かに憑つ
かれたように、どんどん登りつめて行く ──。 「・・・・鵯越えだ」 いつか、彼のひたいは、汗に濡れ光っていた。 恐ろしい罪でも犯した人間のように、彼は、落ち着かない眼で、はるかな闇の底を、初めて、振り返った。 明泉寺の森が、無数のかがり火に浮いて、ぼうと明るい。 もっと、遠くの、低い闇には、宇奈五うなご
ノ岡おか の陣地の火が、チラと見える。 それから、さらに先の、果てもない渺びょう
たる所は、海上に違いない。こよいも、漁火いさりび
のような船かがりが、点々と、波間に平家の運命を点とも
している。── お座船に、大将船に、幾千艘の兵船に。 「ああ、あの中にゃ、おれみたいな臆病者おくびょうもの
は、一人もいないのだろうか。・・・・だが、おれはもう、たれに何と言われようが、宇奈五ノ岡へは帰る気はせぬ。この先、乞食をしようが、嬶かか
や子どもと一しょに暮して死ねればいい。・・・・平和になると言っているが、ばァに、当てになるもんか。これまでだって、何度、和睦わぼく
しかけたことか。朝にも晩の分からねえのが今の世の中だ。── 子どもの代まで、さむらい奉公をやめさせるには、こうでもして、人の笑われ者になるしかねえわい」 駄五六は、闇へ向かって、浩然こうぜん
と言った。── 何者へも、はなからずに、思うことが思うまま、言えただけでも、彼には、解かれた者の絶大なうれしさだった。 ── 寿永三年二月六日、駄五六は、こうして脱走の道を、ひた歩きに、夜通し奔はし
った。 鵯越えは、約三里のあいだ、ほとんどが、ゆるい山路の坂つづきで、口一里、中一里、奥三里、やがて、高尾山の西のすそを藍那あいな
へ出て行く。 もう、ここらは、高原の爽気そうき
。 彼以外は、ひとりの人間も見なかった。 |