〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻

2013/11/28 (木)  ざい しょう (二)

小宰相は、もと、上西門院じょうさいもんいん に仕えていた小女房であった。
そのころ、 「禁中一の美人は?」 といえば、たれもがすぐ 「小宰相」 と、言った。
小宰相が十六の春、そもころまだ中宮亮ちゅうぐうのすけ だった通盛は、法勝寺の花見の御幸で、彼女を見染め、恋文や恋歌を寄せた。しかしそれを解くには、彼女はまだすこしおさな すぎていた。
それから三年たった。
あるおり、上西門院が、ふと、彼女の落とした文をお拾いになって、恋歌の主が、通盛であったことを知られ、女院の口ききから、やっと三年ごしで、その恋は実を結んだ。
それほどな妻でありまた仲なので、通盛は、都落ちの際も、西海へ連れてはし り、一門とともに、惨風悲雨の漂いの中でも、人もうらやむほどな夫婦ふたり だったが、その間に、小宰相は妊娠していた。
「せめて、生まれる子は見たいと思うていたが、こんどの戦場は、名だたる東国武者が相手。勝つも敗るるも、身の一命は保し難い。もしものことがあっても、そなたは、ゆめ、短気を抱くな、妊娠みごも れるものを、通盛と思うて、身を大切に生み落とし、いずれの里にか隠れて、その子を守り育ててくれよ」
先ごろ、屋島を立つとき、通盛は、こう言い残した。
けれど、小宰相は、良人の言葉が、気がかりになって、 「せめて、もう一度のおん名残を ── 」 と、屋島から良人のあとを慕って、そっと会いに来たのであった。
ところが。
さっき佐比さび ノ入江を上がる姿を、教経の部下が見て、これを奥平野の陣地へ告げた。
教経は、聞くと、なんともいえぬいやな顔をした。
みやび な風のある通盛とちがい、教経は、一門切っての猛将である。
わけて、今暁こんぎょう の使いの件が、どう早合点されたものか、決定的な平和でも来たように、諸陣地にいいはやされているらしい様子を聞き、 「こは、容易ならぬこと」 と、心を痛めていたおりでもあった。
「兄君からして、陣中へ、妻を召し呼ばれるようなことでは」
と、思い余って、自身、明泉寺まで来てみたところ、士卒の端までが、もう平和気分で、ぬす み酒を むもあり、日長話ひながばなし に笑い興じているといった有様なので、
「まだ、まことの院宣とも、和議とも知れぬものを、はや囈言たわごと 申して、陣地も忘れおる兵どもを、しかりつけい。── 兄君の御陣所なりとて、仮借かしゃく すな。教経が承知ぞ。怒鳴りつけろ」
教経の下知に、扈從こじゅう の武者が、寺中の諸所を、怒鳴り歩いたものだった。
その間に、教経は、
「── 今や、平家が浮くか沈むかの時ではありませぬか。おん大将たるあなたからして、この御行状は何事ですぞ」
と、兄の三位通盛に会い、泣いて、その女々めめ しさを、いさ めていた。
通盛は、弟が来たと聞いたので、あわてて小宰相を、次ぎの部屋へ隠していた。しかし、 「隠さなければよかった」 と彼は悔いた。
「さは怒るな。能登どの」 ── と、彼は静かに、わけを話した。 「・・・・呼んだのは、わしではない。女ごころの浅慮あさはか さ、あわれさ、小宰相の方から、もう一目と、屋島から慕うて来たものぞ。・・・・けれど、人の聞こえもいかがあらんと、わしみずからも長居は無用と、いまいい聞かせていたおりであった。もう小宰相は、立ち帰るであろう。 しゅう思うな、弟」
── 次ぎの部屋で、それを聞いていた小宰相は、いちどは教経を恨んでわっと泣き伏した。── しかし、ここが戦陣であることを思い直しまた、うわさのように、和議が成ればと、それ一つを楽しみに、泣く泣く、乳人めのと の老女に輿を呼ばせ、そっと、元の女輿に身を隠して帰って行った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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