〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻

2013/11/28 (木)  ざい しょう (一)

越前三位通盛みちもり の下には、歴戦の将士が多かった。
かつては、越中の倶梨伽羅くりから や加賀の篠原しのはら で、木曾の大軍と戦い、多くの苦い経験もなめている。
その後、屋島を根じろに、四国山陽の異分子を風靡ふうび し、特にその水軍は強かった。
水軍の方は、もっぱら、通盛の弟、能登守のとのかみ 教経のりつね の指揮下にあったが、二人とも教盛のりもり が自慢の息子なので 「いずれ劣らぬ門脇殿かどわきどの の兄弟 ── 」 といわれ、平軍中の花とたとえられていた。
こんども、通盛と教経とは、鵯越ひよどりご え口の主将であった。大手に次ぐ搦手からめて の重要な陣地が、この二人にゆだねられたのでも、門脇殿かどわきどの の羽振りが分かるし、またその兄弟軍こそ、平軍の精鋭と見られていたことがわかる。
しかも、三位通盛は、前日、布陣のさい、副将の越中前司盛俊や若狭守経俊らを、後方において、自ら進んで鵯越えのすぐ真下ともいえる、この明泉寺を、陣所としていた。
しかし、ここも例外でなく、今朝からの和平情報にわいて、武将のとばり も、雑兵組のたむろ も、戦陣というよりは、遊山ゆざん の群集みたいに、浮き浮きしていた。
「よう、駄五六だごろく 。たれを探しているのじゃい」
「や、俵太ひょうた か、われを尋ねていたのだわい」
「ほう、おれに、なんの用ぞよ」
「何の用でもないが、ほれ、たった今、奥の御堂みどう の橋廊下の下を通って隠れた女輿があったであろうが」
「ウム、女輿か」
「その道案内をして、これへ来たが、帰りも供をせよといわれ、しょうこともなく、ぶらついているのじゃ。われやあ、その後も、変りはないか」
「変わりがあって堪ろうか。もう二日も過ぎれば、合戦は み、自然、おれどもも都へ帰れるというものだ。まあ駄五六、こっちへ来い。囲いの蔭へ来て一杯飲め」
「なんじゃ酒もりか」
「こっそり、前祝というわけだ。奥の御堂の大将がたも、今日は、すっかりおくつろ ぎらしいのでな」
「道理で、それで里から女が呼ばれて来たわけか」
「何さ、あの女輿のお方は、遊女あそびめ なんどのような、そんないや しい者じゃあねえ」
「では、だれだい?」
「知らねえのか」
「うん、何も知るもんではねえ」
「お供して来ながら、暢気のんき な奴だ。あのお方はな」
と、俵太は、急に声を低めた。
「おん大将の北ノ方だよ」
「えっ、三位さまの奥方か」
小宰相こざいしょう さまと仰せられ、三月みつき四月よつき か、なんでも、おん妊娠みごもり ということだが」
「ヘエ、御懐妊ごかいにん のお体で、よくもまあ」
「きっと、今度の御合戦が、もしや今生のお別れにでもなってはと、名残が尽きず、御一門の眼を忍んで、そっと、屋島からお慕いして来たというようなわけじゃあるまいか」
「もし、そうだとしたら、和議と分かって、どんなに、お二人して、よろこ び合っていることだろうな。・・・・ああ他人事ひとごと ではねえ」
「駄五六、何を考え出したのだ。もすこし、飲まねえか」
「じつあ、去年、都を落ちて来る前に、おらがかかあ も、大きなおなか をしていたが、無事に、産んだかどうか。どんな餓鬼が生まれたやらと」
「アハハハ、ワハハハ、何をふさぎ込むのかと思ったら、てめえの嬶を、のろけていやがる。小宰相さまのようなお美しさでもあめえに」
「何さ。おれにとっては、小宰相さまより、建礼門院さまより、もっともっと、よい女房だぞい。その女房が、おらに別れ、どうして食っているやら、産んだ子を、育てているかなどと思うと」
「よせやい、せっかくの酒が、水っぽくならあ。何も、可愛い女房を残して来たのは、駄五六、おめえだけじゃねえぜ」
「ほんとに、こいつァ悪かった。年のせいと、勘弁しなされ。その代わりに、おらが酌をしようで」
つぼ の口を取り上げて、駄五六が、そこらの者に、酒を いでいた時だった。
突然、そこの板囲いが、外から蹴倒けたお された。そしてまた、すぐ側の薄汚れた幕も引き くられ、同時に、すさまじい大喝だいかつ が、
「なんのざまだっ、この戦場へ来て、酒など、食らいおるとは」
と、あたりの者の耳を打った。
雑兵たちは 「あっ」 と、こけまろ び、そして口々に 「能登守さま!」 と、恐れおのの いた。
そこの囲いを蹴倒したのは、扈從こじゅう の者だが、やや離れた所に、苦々にがにが しい色を面に沈め、じっと、辺りを見ていた人こそ、三位通盛の実弟、能登守教経に違いなかった。
扈從の武者は、なお、こう怒鳴って、 めまわした。
「いったい、たれの許しで、酒などくらっていたか。なんじらには、しかと申し聞かせる儀があるゆえ、一匹もここを動いてはならんぞ。こらっ、逃げてはならんと申すに」
そう言われると、なお逃げ腰になり、すきを見て逃げ出す雑兵たちに交じって、駄五六も、横っ飛びに、身を隠した。でもなお不安なのか、奥の御堂の床下へはいこみ、じっと、小さくなっていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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