人の本来はいかに血を見ることを嫌がっているものかが、その朝ほど、人そのものの上に、現れたことはない。 「平和の院宣が降った。──
今朝、院宣のみ使いが下向されたということだ」 こう伝わって行く迅
さ、明るさ。 その朝の、春のそよ風が、さざ波のささやきのようだった。 「否いな
とよ、院宣ではない」 と、その早耳の誤りを正して、 「今朝のみ使いは、院のみ使いではあるけれど、まだ御内意までのこと」 といっても、 「まことの院宣使いんぜんし
は、八日中にお下向との由だ。さるがゆえに、八日過ぎまでは、合戦はないというだけのことだぞ」 と、事実を告げても、乾いた土が雨を吸った時のように、一度ほっとした歓びと気の弛ゆる
みは、急に元へ戻ろうとはしなかった。 それは、みかどのお座船から、諸大将の軍船や小舟小舟の上にも見られ、陸くが
の諸陣地でも、もちろん、おなじ春めきだった。 例の ── 宇奈五うなご
ノ岡 (会下山) の上に、その六日の昼も、見張り役という形式ばかりに屯たむろ
していた雑兵の兵隊も、すっかり、気を弛ませ、雑談に沸くやら、居眠る者やら、うららかな点景を描き出している。 そして、彼らの眼で、ここらながめやると。 ──
去年のうちから、厖大ぼうだい
な人力と資力をそそいで構築した生田川一帯の防御陣地も、一ノ谷の固めも、輪田ノ岬のたくさんな兵船も、急に、おそろしい無駄物に見え出した。 「これほどな、費つい
えをするなら、福原の都が、もう一度できる」 と、ひとりがつぶやくと。 「いや、都じゅうの宿なしから、おれどもの失うた家まで、そっくり造っても、なお余る」 という兵もいた。 すると、さっきから、岡の端にただ一人突っ立っていた老兵が、空の鳶とんび
にでも気を取られて仰向いていたのかと思うと、突然、 「・・・・ああ、嬶かか
の顔が見とうなったわ。子どもらにも会いとうなったぞい。あの鳶を見い、鳶でさえ、夫婦で子連れや。八日の先が一足飛びに来ぬものかのう」 と、大声でひとり言を言った。 ほかの兵は、こっちで、笑い出した。 「おいおい、駄五六だごろく
。若けえでもねえくせに、なんの囈言たわごと
だ。あれ、鳶が笑ったわ」 「おら、ほんとの肚を言ったのさ。せめて、肚の底のもの、わめくだけでも、気が晴れるというもんだろうが」 「まあ、落ち着いたらどうだい。そう、うろうろばかりしていねえで」 「ああ早く八日が来ねえものか」 「まだ言ってやがる。そんなに雑兵奉公がいやなものを、なんだって、都落ちの御同勢について来たのだ。・・・・あの時ならいくらでも逃げられたものを」 「逃げて田舎へ帰りなどしたなら、うちの年寄りがきくものでねえ」 「おめえが年寄りと思ったら、家にゃまだ上の年寄りがいたのかい」 「八十にもなって、まだ達者さ。何せい、保延ほうえん
の昔、平忠盛様やそのお子の平清盛様が、西国の海賊を討ち下されたときに、お供をしたというおらの親父さまだからの」 「そいつァ大昔だ。おれどもはまだ生まれていない。いや三ッ四ッ時分かな。・・・・だが、そのころから雑兵かい」 「ああ雑兵だ。その先の先の代から、おらの代まで」 「やれやれ、えらいもんだ。──
われこそは平たいら ノ雑兵四代の嫡孫ちゃくそん
にして今も無官の雑兵、ただの駄五六とは」 「そういうわいらこそ、どこの犬の骨だ。おらが先祖などは、伊勢平氏のころから都へ従つ
いて出て、巨椋おぐら の牧まき
で、馬を飼い牧草まきぐさ を耕し、こうして長い御奉公して来たものぞい。ただの雑兵とはいえ格がちがう」 「そう威張りながら、鳶へ泣き言を言うのはおかしいぞ。平和と聞いて、余りのうれしさに、駄五六はちとどうかしたらしい。焦い
れるな、焦い れるな、駄五六だごろく
栗毛くりげ 。もう、たんとの月日じゃあるめえしよ。はははは」 「わははは。アハハハ」 時には堪らない郷愁にもせかれ、牛馬以上な辛さにも泣くが、また、彼らならでは窺知きち
しえない暢気な境地もあるのだった。彼らは他愛もないことにこうして興じ合いながら、一瞬いつとき
でも身に課せられている業ごう
の苦患くげん を忘れようとするものらしい。 そのうちにまた、何を見つけたか、伸び上がった一人が、 「おや、さっき佐比さび
ノ入江いりえ に着いた小舟があったが、その小舟を上って、こっちへやって来る輿こし
があるぞ。・・・・しかも女輿。はて、たれだろう?」 「なに、女輿が」 雑兵たちは、岡の東の崖際がけぎわ
まで歩き出して、 「なるほど女だ・・・・」 と、何かに渇かわ
いているような眼をそばめあった。 屋島では、女房船もあり、大将たちの北ノ方や姫君の姿を見るのも、まれではない。 けれど陣地で、女輿を見たのはめずらしい。これも、平和がもたらした一景色かと、彼らは、ひそかな希望を裏づけながら
「どこへ行く女性にょしょう か」
と、なお見ていた。 女輿には、五人の従者と、乳人めのと
らしい尼頭巾あまずきん の老女が供についていた。そして、夢野の辻まで来て止まった。道に迷っているものらしい。しきりと、立ち思案に暮れていたが、やがて路傍に、輿を下ろしてしまい、供の一人が、この宇奈五うなご
ノ岡おか へ向かって駆け登って来る様子であった。 |