〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻

2013/11/26 (火)  ろく あん (二)

人の本来はいかに血を見ることを嫌がっているものかが、その朝ほど、人そのものの上に、現れたことはない。
「平和の院宣が降った。── 今朝、院宣のみ使いが下向されたということだ」
こう伝わって行くはや さ、明るさ。
その朝の、春のそよ風が、さざ波のささやきのようだった。
いな とよ、院宣ではない」
と、その早耳の誤りを正して、
「今朝のみ使いは、院のみ使いではあるけれど、まだ御内意までのこと」
といっても、
「まことの院宣使いんぜんし は、八日中にお下向との由だ。さるがゆえに、八日過ぎまでは、合戦はないというだけのことだぞ」
と、事実を告げても、乾いた土が雨を吸った時のように、一度ほっとした歓びと気のゆる みは、急に元へ戻ろうとはしなかった。
それは、みかどのお座船から、諸大将の軍船や小舟小舟の上にも見られ、くが の諸陣地でも、もちろん、おなじ春めきだった。
例の ── 宇奈五うなご ノ岡 (会下山) の上に、その六日の昼も、見張り役という形式ばかりにたむろ していた雑兵の兵隊も、すっかり、気を弛ませ、雑談に沸くやら、居眠る者やら、うららかな点景を描き出している。
そして、彼らの眼で、ここらながめやると。
── 去年のうちから、厖大ぼうだい な人力と資力をそそいで構築した生田川一帯の防御陣地も、一ノ谷の固めも、輪田ノ岬のたくさんな兵船も、急に、おそろしい無駄物に見え出した。 「これほどな、つい えをするなら、福原の都が、もう一度できる」 と、ひとりがつぶやくと。 「いや、都じゅうの宿なしから、おれどもの失うた家まで、そっくり造っても、なお余る」 という兵もいた。
すると、さっきから、岡の端にただ一人突っ立っていた老兵が、空のとんび にでも気を取られて仰向いていたのかと思うと、突然、
「・・・・ああ、かか の顔が見とうなったわ。子どもらにも会いとうなったぞい。あの鳶を見い、鳶でさえ、夫婦で子連れや。八日の先が一足飛びに来ぬものかのう」
と、大声でひとり言を言った。
ほかの兵は、こっちで、笑い出した。
「おいおい、駄五六だごろく 。若けえでもねえくせに、なんの囈言たわごと だ。あれ、鳶が笑ったわ」
「おら、ほんとの肚を言ったのさ。せめて、肚の底のもの、わめくだけでも、気が晴れるというもんだろうが」
「まあ、落ち着いたらどうだい。そう、うろうろばかりしていねえで」
「ああ早く八日が来ねえものか」
「まだ言ってやがる。そんなに雑兵奉公がいやなものを、なんだって、都落ちの御同勢について来たのだ。・・・・あの時ならいくらでも逃げられたものを」
「逃げて田舎へ帰りなどしたなら、うちの年寄りがきくものでねえ」
「おめえが年寄りと思ったら、家にゃまだ上の年寄りがいたのかい」
「八十にもなって、まだ達者さ。何せい、保延ほうえん の昔、平忠盛様やそのお子の平清盛様が、西国の海賊を討ち下されたときに、お供をしたというおらの親父さまだからの」
「そいつァ大昔だ。おれどもはまだ生まれていない。いや三ッ四ッ時分かな。・・・・だが、そのころから雑兵かい」
「ああ雑兵だ。その先の先の代から、おらの代まで」
「やれやれ、えらいもんだ。── われこそはたいら ノ雑兵四代の嫡孫ちゃくそん にして今も無官の雑兵、ただの駄五六とは」
「そういうわいらこそ、どこの犬の骨だ。おらが先祖などは、伊勢平氏のころから都へ いて出て、巨椋おぐらまき で、馬を飼い牧草まきぐさ を耕し、こうして長い御奉公して来たものぞい。ただの雑兵とはいえ格がちがう」
「そう威張りながら、鳶へ泣き言を言うのはおかしいぞ。平和と聞いて、余りのうれしさに、駄五六はちとどうかしたらしい。 れるな、 れるな、駄五六だごろく 栗毛くりげ 。もう、たんとの月日じゃあるめえしよ。はははは」
「わははは。アハハハ」
時には堪らない郷愁にもせかれ、牛馬以上な辛さにも泣くが、また、彼らならでは窺知きち しえない暢気な境地もあるのだった。彼らは他愛もないことにこうして興じ合いながら、一瞬いつとき でも身に課せられているごう苦患くげん を忘れようとするものらしい。
そのうちにまた、何を見つけたか、伸び上がった一人が、
「おや、さっき佐比さび入江いりえ に着いた小舟があったが、その小舟を上って、こっちへやって来る輿こし があるぞ。・・・・しかも女輿。はて、たれだろう?」
「なに、女輿が」
雑兵たちは、岡の東の崖際がけぎわ まで歩き出して、 「なるほど女だ・・・・」 と、何かにかわ いているような眼をそばめあった。
屋島では、女房船もあり、大将たちの北ノ方や姫君の姿を見るのも、まれではない。
けれど陣地で、女輿を見たのはめずらしい。これも、平和がもたらした一景色かと、彼らは、ひそかな希望を裏づけながら 「どこへ行く女性にょしょう か」 と、なお見ていた。
女輿には、五人の従者と、乳人めのと らしい尼頭巾あまずきん の老女が供についていた。そして、夢野の辻まで来て止まった。道に迷っているものらしい。しきりと、立ち思案に暮れていたが、やがて路傍に、輿を下ろしてしまい、供の一人が、この宇奈五うなごおか へ向かって駆け登って来る様子であった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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