〜 〜 『 寅 の 読 書 室 Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻
2013/11/25 (月) 平 和 の 使 い (一)
ここの
大船
(
おおふね
)
。── そこには今朝から軍議につらなった人びとが、席もそのままに、
内大臣
(
おおい
)
ノ
殿
(
との
)
が、
御裁可
(
みゆるし
)
を得て帰るのを、待ちわびていた。
まもなく、小舟から上って来た宗盛は、
空
(
あ
)
いている元の将座へその姿を見せた。そして厚ぼったい両のひざをやっと前で組み合わせながら、
「思わぬお待たせを」
と、一門の者へ、ちょっと頭だけの会釈をした。
この人の胸のものは、すぐ
面
(
おもて
)
に出る。どんよりと顔に曇りがあらわれていた。常を知っている一門の者はすぐ読み取って 「はて、こう暇どったのも、何かよくないことであるらしい」 と、もう察していた。
「兄君。みゆるしの儀は、
降
(
くだ
)
りましたので?」
たれも黙っているので、宗盛の弟、知盛がこらえきれずに
訊
(
たず
)
ねた。
「うむ、みゆるしは、まず出たようなものだったが、女院がのう・・・・」
「
建礼門院
(
けんれいもんいん
)
さまが」
「しきりに、おん嘆きなのだ。いや、おん歎きというだけではない。このところ、おからだも
快
(
よ
)
うないと仰せられてな、何せい、
陸
(
くが
)
へのお
遷
(
うつ
)
りを御承知ないのじゃよ。・・・・いや、門脇どのも、そのお
諭
(
さと
)
しには、
困
(
こう
)
じ果てたことだった」
すると、
維盛
(
これもり
)
や
重衡
(
しげひら
)
なども、いちどに口を開き出した。
「では、主上の一ノ谷
行幸
(
みゆき
)
は、いかがなことになりましょうや」
「ぜひもないでの」
「お取り止めで」
「まあ。・・・・そうなる」
さっきから、不満な顔つきを、わらわに見せていた
能登守
(
のとのかみ
)
教経
(
のりつね
)
が、このとき、
「かりに、女院はお
病気
(
いたずき
)
のため、船中にお
臥
(
ふせ
)
せりあるとしても、主上の
行宮
(
あんぐう
)
御出座まで、お見合わせには及ばぬのではおざるまいか。・・・・尼君以下、典侍の女房らも、あまた、おん
侍
(
かしず
)
きはおるのですから」
と、宗盛へではなく、実父の門脇殿を見て言った。
「いや、その思案もいたしたが、それには、尼君からして、好もしいお顔色でない。一夜とて、ただの
一刻
(
ひととき
)
とて、おん母のお姿が見えぬとあれば、みかどは、物狂わしいばかり呼び探して、おん母がお側に見え給わぬうちは、なんとしても、泣きやまぬという」
この答えには、みな黙るしかなかった。 「・・・・ごむりもない、ごむりもない」 と言いたげに、ひとりうなずいていたのは、
鬢
(
びん
)
の白い経盛の
頚
(
うなじ
)
だけであった。
なお、議論は出たが、やっと、人びとも得心のほかない様子に見渡されたので、宗盛は、次への意見をすすめた。
「主上のお
遷
(
うつ
)
りはなくも、一ノ谷そのほかの、さきに決めた諸勢の配りに、変わることは少しもない。・・・・ただ、
海
(
うな
)
ばらに玉座をおかるるからには、この宗盛を始め、門脇どの、時忠どの、経盛どのなんど、御守護の軍兵も幾ぶんか残して、海上にとどまりおらねばなるまいかと思う」
「いうまでもございますまい」
一ノ谷の主将を命じられていた
薩摩守
(
さつまのかみ
)
忠度
(
ただのり
)
が、一隅からそい言って、
「主上はおいで遊ばさなくても、われらには、おいでであるとする心になんの違いもございませぬ。── とかくして、今日二月五日の日も、はや半日は過ぎ、風もそよめいて来たせいか、なんとなく、かく
空
(
むな
)
しくいるのが心騒がしくなりました。・・・・それがしどもは、打ち連れて、ひと足お先へ、一ノ谷に向かいますれば、
中座
(
ちゅうざ
)
おゆるしを」
と、末席の侍大将たちに、そっと眼くばせを投げ、そしてまた、すぐそばにいた敦盛へも、
「参りましょう」
と、うながして、座を立った。
すると、それをしおに、
「おう、われらとても」
と、ほかの持ち場へ向かう面々も、よろいの音、太刀金具のひびきを一しょにして、立ち上がった。
そして口々に 「抜かるな、おのおの」 と励ましたり、 「なんの、東国武者ずれに」 と振り返って、強味を誇示して見せるもあり、また 「── 寄せくる源氏を
蹴散
(
けち
)
らして、それを追い撃ちしつつの上洛ぞ。守るだけが
能
(
のう
)
ではないのだ。この足で、なつかしい都の土を踏む日も遠い先ではないぞ」 と、弓をさしあげて、呼号する若武者もあった。
さしもの巨船も揺れ返るほど、どよめき、どよめき、各自が自分らの小舟を呼んで、そこの
舷
(
ふなべり
)
からわらわら跳び下り、そして八方にある船と船の間へ
漕
(
こ
)
ぎ別れて行く──。
そうした踏まれんばかりな混雑の中で、敦盛は、弓を横に置いて、船床の
一隅
(
いちぐう
)
にかしこまり、なおかなたに、寂とした姿ですわっていた父経盛の方へ向かって、いつまでも両手をつかえていた。
「・・・・・・・」
父も何も言わないが、じっと自分を見てくれたと敦盛は思った。── が、ふと
眼
(
ま
)
ばたきした父を見 「ああ、いつのまにやら、
睫毛
(
まつげ
)
までがお白くなっている。
筑紫
(
つくし
)
の海や門司四国を
漂
(
ただよ
)
うまにか。都においでのうちは、ああまで、
鬢
(
びん
)
もお白くはなかったのに・・・・」 と思い、また 「いやいや、それを、おとど増したのは、自分せいかも知れない」 と責められたりして、つい人前もなく、
籠手
(
こて
)
を曲げて、涙の顔をつつんでしまった。
けれど、父と子、兄と弟など、別れ別れに立つ者は、ここの一組だけではない。なおまだ、あちこちに、
相擁
(
あいよう
)
している親子や、手と手を握りしめて別れを惜しんでいる人びとが見えた。
やがて、経盛の姿は、 「はや、行け」 という心か、つと、横を向いてしまった。同時に、
舷
(
ふなべり
)
の下から、敦盛を呼ぶ声もしていた。先に小舟に下りていた忠度の声であった。
著:吉川 英治 発行所:株式会社講談社 ヨリ
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