〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻

2013/11/23 (土)  しら たま (二)

かすみの中の千余艘の船艇から、ひとしきり、兵の炊煙すいえん がさかんに揚がり、やがて、それもかすみも吹き晴れて、ただまばゆ い昼のうな づらとなったころ ──
「昨夜は、お疲れでおわそうに。母公 (二位ノ尼) には、なんのおつつがもない御容子かの」
と、内府宗盛が、重たげな体を、大鎧おおよろい のため、よけい丸くかがめて、叔父の教盛のりもり とともに、自分の船から、見舞いに来た。
舷側げんそく の武者は、すぐ内裏の典侍へ、
内大臣おおい殿との (宗盛) と、門脇かどわき殿との (教盛) とが、おそろいにて、お渡りでございますぞ」
と、大声で告げ渡す。
それを聞くと、たれよりも早く、みかどの小さいお姿が走りで出て、宗盛の鎧の袖にぶら下がった。
おんつむり でながら、
「おう、おう、いつもごきげんであらせられますの」
と、宗盛は、高々とお抱きして、
「やあ、これは重い。日ごとのように、お重くなられる・・・・」
と、ほんとに、息を切らしながら、御簾みす の座へ入って行った。
二人の姿を見ると、尼は、さっそく事のように、
「ゆうべ、御遠忌ごおんき管絃講かんげんこう のあとで、輪田ノ松原の武者が、何やら、あわただしゅう駆け去ったが、あれは敵がよせて来たのではなかったのか」
と、まずたず ねた。
「はははは、お驚きなされましたろう。船手においても、ちとあわてましたが、明け方になり、つまらぬ虚伝と知れました。── 刈藻川かるもがわ上流かみ に住む土民が、長田神社の穀倉へ、盗みに押し入り、神人じにん たちと、争いのあげく、火を失したものとか」
「それはまあ、敵の夜討でのうて、よかったの」
「あらから上は鵯越ひよどりごえ えと申す嶮岨けんそ です。その先も、山ばかりなれど、念のため、権中将ごんのちゅうじょう 資盛すけもり らに手勢をさずけ、丹波に近い三草みくさ と申す辺りに、さく を固めさせましたゆえ、敵もめったに破り入ることはかないません」
こう大人たちが話しているまも、みかどは、ちっともじとしておいでにならない。それを、おん母の建礼門院が、側へ引き寄せて、何か小声でさと しているのを見、宗盛はふと苦笑を向けた。
「たれに似させ給いしか、いよいよ、お悪戯いた ざかりよの。── 祖父じじ ぎみ の禅門 (清盛) に似られても、後白河 (法皇) に似通わせ給うても、みかどのお元気な駄々っ子ぶりは、いずれかお二方ふたかたみ祖父じじ ぎみ ゆずりでおわそうよ。はははは」
二位ノ尼も、ほとほと持て余し気味に、
「お元気は、よいけれど、一時いつとき だに、眼もお離しはできませぬ。けさもけさとて、ひと騒ぎ遊ばしてのう・・・・御覧ごろう じませ、まだ、おんまぶたあこ れておりましょうに」
と、かこ った。
「いやいや、お気骨は折れましょうが、まあ、それくらいなら、祝着しゅうちゃく です。もし、みかどがおひよわであったりしたら、戦の士気にもかかわりまする」
これは、一方の叔父、門脇殿かどわきどの の方の、言葉だった。
それに、相槌あいづち を打って、宗盛も、
「そうですとも、三種の神器とともに、三軍の上にあるみかどは、おすこやかでなければ困る。どう、お悪戯いた がおさかんんであろうと、御丈夫こそ、祝着」
と、言った。
ふと、建礼門院のおんまゆ が、雨に打たれた花かのようにうつ いた。
こう二人の、叔父や兄たちに限らず、一門のたれかが、よくおなじ意味のことを言うのを聞くたび、彼女は胸も暗くなる思いがする。
みかどを産みまいらせた母の身にとれば、なんたる非情な言葉よと、恨まずにいられなかった。 「もしお弱かったりしたら、戦の士気にかかわる」 とは。── それでは、みかどのおん身は、戦の為にあるのだろうか。それが臣の口から 「── 祝着」 といえることなのであろうか。
もとより軍には平家が勝って欲しい。一日も早く元の都へ還御かんぎょ ある日もこの眼で見たい。
けれど、それのために、何も御存じないみかどのおん身を、戦の中へ押し進め、修羅しゅら の旗じるしとしてもかまわぬとは、たれが言うのか。みんな、みかど以外の人びとの考えではないか。
みかどは、何ももとめてはおいでにならない。白珠のままにおわすだけである。なおさらのこと、母にはそんなむごいことは出来ない。何も御存じない陛下を、いやわが子を、そのような非業ひごう な旗におさせ申してよいものか。
── そう、憂いをひそめて、今もじっと、建礼門院の深いおん睫毛まつげ の蔭のものが、心ない叔父よ兄よと、うらめしげに、見すえているともさと らぬように、一方の宗盛と教盛とは、
「そこで、時刻はまだ、早ようございますが、あらかじめ、お耳にまで達しておきますが」
と、ひとひざ進め、
「早朝からの、一門群議の座において、いよいよ、総勢の手分け、布陣の次第も定まり、すべて今日中に、くが に移ることに相なりました」
と、尼の前に、“軍揃いくさぞろえ ノ表” らしき物をひろげ、それらの配置や、予想される戦いの形を、二人で説明しはじめたのであった。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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