〜 〜 『 寅 の 読 書 室 Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻
2013/11/23 (土)
吾
(
あ
)
子
(
こ
)
は
白
(
しら
)
珠
(
たま
)
(一)
明け方、肌寒かったが、
陽
(
ひ
)
が出てからは、いちめん、真珠色の
微粒
(
びりゅう
)
が立ち昇り、それが波映と溶けあって、ゆらゆら暖かい春の海となっていた。
「みかどが、みかどが、お危ない」
建礼門院のいつものきれいなお声 ── しかし母性の
動悸
(
どうき
)
を人にも
搏
(
う
)
つような、けたたましさに、二位ノ尼まで、一緒になって、
「
誰
(
た
)
ぞ、
誰
(
た
)
ぞ、
舷
(
ふなべり
)
へ出て、みかどを、お抱きして来て
給
(
た
)
も。みかどを」
と、玉座の
御簾
(
みす
)
の内から外へさけんだ。
お座船の玉座は、低めな
楼造
(
ろうづく
)
りで、
勾欄
(
こうらん
)
をめぐらし、下の局に、
内侍
(
ないし
)
や女房たちが居た。
「まあ、いつのまに」
女房たちは、またかであった。
緋
(
ひ
)
の
袴
(
はかま
)
をひき、
艫
(
とも
)
やみよしへ、みかどのお姿を、探しに走った。
他の船には見られない構造がここにはあった。玉座の屋形に接し
総檜
(
そうひのき
)
づくりの
一殿
(
いちでん
)
が
設
(
しつら
)
えられていた。三種の神器を安置しておく
賢所
(
かしこどころ
)
──
内侍所
(
ないしどころ
)
ともよぶ
神倉
(
しんそう
)
である。
また、内侍所の背後には、
日月
(
じつげつ
)
の
幡
(
ばん
)
が立っていた。
錦
(
にしき
)
の
布
(
き
)
れの美しいその旗が、幼いみかどには、とかく欲しくてたまらない物にお見えだったらしい。
今も、危なげな所へ、に足をかけて、
幡
(
ばん
)
の端を引っ張ろうとしていたのを、女房たちが、むりに、お抱きして返ると、みかどは、あらん限りな泣き声と力で反抗され、内侍のひとりは、みかどの細かなお歯で、血が出るほど指を
噛
(
か
)
みつかれた。
さあ、それからの、ご機嫌が直るまでの騒ぎも、一通りなことではない。おん母も尼も、手をやいてしまうのである。
何しろ、男の子のおん七ツ。
内裏
(
だいり
)
といっても、波の上やら島住居だし、明け暮れ見るのは武者武者ばかりだった。自然に、野性にもおなりになる。
だから、屋島をお立ち出で以来、お座船では、こんな騒ぎが、日に何度だかわからない。
日ごろ、おん母の女院は、つとめて、
文習
(
ふみまな
)
びや、音楽や、絵巻の
詞解
(
ことばと
)
きなどに、みかどの興味をお誘いして、流浪の月日の間にも、御教養にだけは欠けぬようにと、心をくだいては来たのである。
けれど、それも昨今のような戦雲の下となっては、おん母自身の胸が絶えず
そぞろ
(
・・・
)
であり、また、周囲の者の血相やら陣の景色も、みかどの純なお心をいたく傷つけるものとみえて、このごろ特に
癇
(
かん
)
がお強くなった。そして夜半の
御寝
(
ぎょし
)
のおん
囈言
(
うわごと
)
にも、とつぜん叫び声を発しられたり、何か、わけもなくお泣き遊ばすことなどがまれでなかった。
著:吉川 英治 発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next