〜 〜 『 寅 の 読 書 室 Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻
2013/11/22 (金)
悲
(
ひ
)
絃
(
げん
)
(三)
しめやかな酒が
酌
(
く
)
み交わされた。しかし、夜更けの潮風はじっとりと、よろいの
袖
(
そで
)
や女房衣を重たくして、さざめく笑い声もわかず、ただ
舷
(
ふなべり
)
をヒタヒタと打つ波の音だけしかない。
「故入道どのは、陽気がお好きであった。こう、やるせなげなる陰気は、我慢もならぬお
性
(
さが
)
であったげな」
たれともなく、こう
喞
(
かこ
)
つと、
「── それよ、千部の読経よりも、
管絃
(
かんげん
)
こそ、よい御供養。舞や管絃は、時をきらわず、お好きであった」
「笛やある。
琴
(
こと
)
やある」
「ございまする」
「建礼門院には、おん琴を。── 経正の君には、
琵琶
(
びわ
)
をこそ」
ようやく、人びとは興じ出して、
薩摩守
(
さつまのかみ
)
忠度
(
ただのり
)
には
笙
(
しょう
)
の役が振り当てられ、ひちりきは
門脇
(
かどわき
)
中納言教盛、鼓は三位中将重衡、そして笛は、 「笛の家とも言われるお家柄なれば、
修理
(
しゅりの
)
大夫参議経盛どのが、
一期
(
いちご
)
の思い出に、勤め給え」 と、人びとがいいはやした。
すると、経盛は、
「琵琶をば、嫡子経正がいたすことゆえ、この老人は」
と、遠慮して断った。
けれど、なお人びとが、しきりに 「笛のお家ともいわるるのに」 と、すすめ抜くので、経盛は、
否
(
いな
)
みかねた様子で、
「では、
末子
(
まつし
)
の敦盛にお命じくだされい。まことを申せば、敦盛の方が、この老父よりは、いささか笛はよくいたしまする」
と、言った。
敦盛は、がっとした
容子
(
ようす
)
であった。── が、父の言葉、また人びともすすめるまま、
鎧下
(
よろいした
)
から
一管
(
いっかん
)
の笛を取り出して、管絃の座につらなった。
建礼門院は、琴に向かい、以下の人びとも、それぞれ、日ごろたしなむ楽器を手に、供養の合奏を、しらべ出した。
かなでる人も、聞き入る者も、つい、涙なくてはいられなかった。鳴りいずる
妙
(
たえ
)
な響きは、幾種類もの楽器の
業
(
わざ
)
のようであったが、じつは、
一船
(
いっせん
)
の上に居る一門数十人の ── いや波間に見えるかぎりな無数の船や ── また、輪田ノ松原にみ居るたくさんな将士の、すべての心から、それは鳴っているものと言ってよかった。
雲間
(
くもま
)
には、ほそい四日月が、ふと顔を出している。
依然、夜の海には、風もない。
多感な公達ばらが、ふと、若い血をせぐり上げて、すすり泣いたのをきっかけに、あたりの
女性
(
にょしょう
)
や武者たちも、さんぜんと涙を流した。よろいの袖に声をつつんでみな泣いた。
若い時から泣き虫であったばかりでなく、老いてからも、ややもするとよく泣いた故人の清盛も、そこらにあって、管絃を聞きながら、一緒に泣いているのではあるまいか。
そんな錯覚も抱かれるほど、
壇
(
だん
)
の燈明が、風もないのに、またたいた。 「── わが、夢やいずこ」 と、
現
(
うつ
)
し
世
(
よ
)
の変り方を、疑うように、揺れまたたいた。
清盛でなくても、この現し世の流れと、変り方を、たれが、想像し得たであろう。
── あれほどな財と人力と、そして清盛が半生の心血とを、石船の石もろとも、そそぎ入れて成った築港にも、彼が望みとしていた宋との交易船は今、見るよしもなく、それに代って波上に見るものは、彼がこの世に残した
眷族
(
けんぞく
)
── 家なき流浪の一門だった。
「・・・・やっ、何やら、輪田ノ松原で、どなっておりますぞ」
「おう、
陸
(
くが
)
の人びとが、駆けて騒いでゆく」
「敵か」
「敵やも知れぬ。・・・・灯を、灯を。・・・・やよ人びと、かがり火をみな海へ捨てよ。灯影を消せ」
突然、近くの兵船と兵船の上で、こう、
喚
(
わめ
)
きあう声がながれ、さしも人びとのたましいを遠くにさせていた
妙
(
たえ
)
な管絃の音も、一時に、
弦
(
げん
)
が
断
(
き
)
れたように、ふっと絶えた。そして
海原
(
うなばら
)
すべて、真っ暗になった。
著:吉川 英治 発行所:株式会社講談社 ヨリ
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