〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻

2013/11/22 (金)   げん (二)

凡音ぼんおん や読経の進む間に、人びとは、太政入道相国の霊位がまつってある大香炉だいこうろう の前へ、順々にかが まって、こうねん じ、はい をして、おのおのがおのおのの胸のおもいを手向たむ けて退しりぞ いた。
清盛には、孫に当る天皇は、まだ七ツの御幼少なので、まわりの人びとの涙にも、寂莫せいきばく たる夜景にも、まったく、なんの感傷にもとらわれたお姿ではない。
「こう、御座あらせられませ。そして、こうして、祖父じじ 君へ、おん手をお合わせ遊ばせや」
と、建礼門院が、低いお声で教える通りには、素直に、真似まね されたが、おん母が長い長い間を祈念し、ひれ伏しているまに、帝は、もう元のお席へ返って、すわりもなされず、海上一面な灯の美しさや輪田ノ松原一帯のかかり火などに、しきりと、眼をたの しませておいでになる。
それのひきかえ、総領の内府宗盛はいうまでもなく、一門のたれのせよ、さすが、清盛の霊位の前に出ては、慚愧ざんき の念か、悔悟かいご か誓いか、 びかただ涙か、何か自分を自分で責めずにいられない姿を伏せた。
また、知盛や教経のりつね のようなたけ き者どもは、 「きっと、源氏を打ち破り、やがて頼朝よりともこうべ を、御墓前に供え奉らずにはおきませぬ・・・・」 と、血のような涙を垂れ、そのまま、泣き伏すのであった。
「いざ・・・・敦盛。・・・・そっと、わしとともに」
経正は、後ろの弟へ、眼くばせして、すでに一門の焼香も終わりかけた後から、壇の前へ進んで、静かに、拝礼をとげた。
「経盛どのの乙子おとご よな」
声こそなけれ、人びとの眼は、敦盛の姿にそそがれたようである。── 座をすべってから、経正と敦盛は、こんどは幼帝の方に向かって礼をした。
すぐ側に、父経盛の姿があった。
「・・・・・」
父の眼は、兄弟を見ていた。わけて、末子の敦盛をじっと見入った。 「なぜ、ここへ来たか」 としかっているような ぶりはない。いや、その老いの眼は、心なしか、ほっとした安堵あんど と、うれしさに、濡れているようにさえ見え ── 敦盛はとたんに 「父君、おゆるしを」 と、そのひざへとびついて行きたい衝動にかられた。 ── が、一瞬の ばたきの後には、反対に、寄せつけもしないような、厳父にも見えていた。
「── 夜も けて候えば、いとど潮風も肌寒う覚えらるる。・・・・読経も終わりかけて候えば、おくつろぎあって、風邪かぜ 召し給わぬよう、女房がたは、きぬ 打ちかさ ねられませ。殿輩とのばら には、酒まいらせん」
供養僧は、告げ渡して、燈明の油をつぎ足した。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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