ひる霞
だけで微風もない日の瀬戸内せとうち
の海は、余りにも何か無聊ぶりょう
で、退屈な海うな づらだった。すると
── 二月四日、陽ひ もうすすきかけて来たころからの動きである。 家島いえしま
、男鹿島、西島、坊勢島なごの群島の間から、およそ百人くらいは楽に乗れそうな唐風からふう
の楼船ろうせん や、船上に武者やぐらを組んだ巨大な船艇など、大小さまざまな兵船三百余艘が、波しづかな播磨灘はりまなだ
を、北の方へさして ── それとて、いかにも、おそるおそる、陸影のかなたを探りつつ行くかのように ── 進んでいた。 同時刻に。 室むろ
ノ津つ 、飾磨しかま
の港からも、船上にぎっしりと弓、薙刀なぎなた
を立て並べて行く船列が見え、淡路の西海岸からも、軸艫じくろ
をそろえて、明石海峡あかしかいきょう
の一点へさしてゆく無数の船の旗があった。 すでに前々から、時刻と、落ち合う所とが、布令ふれ
されていたに違いない。 鯨群げいぐん
もおろかな船影また船影のすべてが、明石海峡を通過し、やがて駒ヶ林の浜から輪田ノ岬みさき
(現・神戸市兵庫区) を巡って、そこの築堤のある沖に、碇いかり
をおろしたのは、夜も更けかけていたこと、いうまでもない。 「おお陸くが
にも、あまた、お味方の影が」 「今日ぞ、御遠忌と、お座船ざぶね
の到るのを、早くより、輪田ノ松原にて、待ちわびていたものであろう」 「御法要の御支度みじたく
よろしくば、鐘打ち鳴らせや」 「船篝ふなかが
りも、いちどに、明々あかあか
と」 法要の奉行にも、一門の公達ばらが、協力して、勤めていた。 ── 時刻近し、と、鐘で知らせる。 それを、しおに。 海上は不知火しらぬい
のような灯の数にちりばめられた 一艘一艘に、船篝ふなかが
りが焚た かれ、またどんな小舟にいたるまでも、白木の壇だん
を置き、香華が供えられ、それに、燈明がともされた。 陸を見れば、輪田ノ松原一帯にも、おなじような明るさがながめられる。 先陣として、すでに陸上にあった将士が、こよい主上のお座船と、故入道相国の御霊船みたまぶね
を海上に迎え、忌日きにち の拝はい
をともにせんと、市ノ谷、生田、鵯越え方面から、しばし、ここの海辺へ集まって来たものと思われる。 輪田ノ岬には、亡き清盛がここに築港を築いたときの祈願寺
── 来迎寺らいこうじ の山門と塔の一部だけが
── 今はうら悲しい残骸ざんがい
をそこの松原にさらしている。おそらくは、門ばかりな形見の寺に駒をつなぎ、数千の将士は、松落葉をしとねにすわり流れ、海上へ向かって、もう、称名しょうみょう
を唱えていたのではあるまいか。 法要の営まれる船は、幼帝のお座船ではない。 べつに、その夜の為に、あだかも、屋根にない御堂みどう
のように壇だん も香華こうげ
も設けられた清浄な大船の一つがそれに当てられた。 そして、幼い安徳天皇以下、おん母建礼門院、二位ノ尼、近親の女房や姫たちの姿が、もう見える。 清盛の三男
── 一門の総領たる前さき ノ内府宗盛が、その厚ぼったい体を、幅広く、天皇や尼のそばに置いていたのは当然で、故人の実弟で、そして年かさな経盛つねもり
、教盛のりもり などが次ぎにつづき、また尼の弟、平大納言時忠も、黙然と、手をひざび組み合わせていた。 そのほか、故人の孫、甥、外戚がいせき
のたれかれなど、なおまだ、平家一門の名と人とだけは、そのままあった。 それらの近親者すべての者を、この一艘の内に見るにつけ、二位ノ尼の胸は、 「・・・・もし、小松殿
(嫡男重盛) が生きておわしたら」 という思いやら、明日の波間の心細さなど、新しい悲しみに、こみ上げてくるのを、どうしようもなかった。 やがて、身内の沙門しゃもん
たちが打ち揃って、さかんな読経をあげ、香炉こうろ
の煙が立ちのぼるにつれ、尼の胸は、なおさら切せつ
なさにくるまれた。 ── 良人としての故人の気持をほんとに知っている者は、自分のほかにはないと、今も、信じて疑わない彼女でもあった。 良人の清盛は、かかる供養の忌日きにち
のという仏事などは、あまり歓よろこ
ぶお人ではない。都を源氏の手に渡したことこそ、どんなに 「不甲斐ない子どもら」 と、歎なげ
いておられることかもしれまい。 いや、その都さえ、せまい都、うるさい公卿蛙の住む古池の都と、そう執着はしていなかった。 おそらく、故人が最も遺憾としているのは、福原の地を、こんな瓦礫がれき
の焼け跡にしてしまったことであろう。 彼女は 「申しわけない」 と、生前の良人に叱られている時のようにじっとさしうつ向いていた。そして、 「それこそ、どんなにお腹を立て、口惜しく思し召しておられようぞ」
と思うにつけ、もう怺こら えきれず、何度も咽むせ
びそうになった。 |