〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻

2013/11/18 (月) 海 の 蝶 々 (二)

「── 弟」
と、やがてのこと、経正は少しあらたまった。
「おもと と、一つの船にいるのも、今宵だけになったぞ」
「では、明日はいよいよ、一ノ谷の磯か、輪田わだみさき へ、上陸あが りますので」
「いやいや、先陣の兵馬は、すでに上っておる。わららはまだ幾日か、海上におることになろう。しかし、おもととわしみ、明日はそれぞれ自分の る軍に従って船も分かれ、以後の陣組みに就かねばならぬ」
「源氏との合戦は、はや、迫ったと伺いましたが」
「いかがせしか、その後、源氏の軍勢は、まだ、洛外大江山あたりに踏みとどまり、にわかに動く気色もないという」
「物見の らせでございますか」
「それもあるが、院の公卿の間には、都に残りおるも、平家に心を寄せて、さまざまな便りをよこして、何かと、ひそかに告げてくださるお方も多い。たとえば、右大弁殿うだいべんどの なども」
「・・・・・」
弟の顔が、ほのかに紅くなったのを見た。経正は知っていた。その右大弁親宗の姫と弟の恋仲を。── が、それには触れずに、さりげなく言いつづけた。
「それやこれや、敵地からの聞こえを、聞き集めたところでは、源氏方もまだ数日は西下すまいとの見方が強い」
「瀬田、宇治川で木曾と戦ったばかりゆえ、兵馬も多く傷つき、すぐには次の合戦に臨む支度の出来ないせいでございましょうな」
「それもあろう。・・・・が、もっぱら言われておることは、みょう 四日は、平家にとって、 き平相国清盛公のおん 忌日きにち 、五日は源氏にとって西塞にしふさが がりの凶日、六日も悪日あくび 、それらの日をきろうてのこととか申す」
「悪日を避けるのは分かりますが、敵が、わが平相国の御忌日をはばかるというのは」
「さすが、東国武者も、もののふの思いやりよ。また、世上への聞こえもいかがかと、たじろいたことかもしれぬ」
「・・・・して、御仏事のおんいとな みは」
「明日の夜。船中を清めまいらせ、くが からも海からも、一門すべてが、輪田の辺りへ集まって、 太政殿だじょうどの が四年目の 遠忌おんき を供養し奉るそうな」
「では、福原への御上陸もなく」
「── 沙汰は至極平穏なれど、さりとて、戦のこと、いつなん時、敵の襲うこともないとは限らぬ。かつは、福原も先年、焦土と化し、あまたな御寺みてら や堂宇も悉皆しっかい 焼け亡び、そこへ、尼の君がお上陸あがり になってみても、いたずらに、おん涙をそそるものしかない。
── で、二位どののお望みとしては、福原で営みたいとの思し召しであったと聞くが、人びとがおなだめ申して、海上の御法要と相なったらしい」
「戦下、是非もないこととは申せ、二位殿のおん胸、どにょうでございましょうな」
「敦盛」
「はい・・・・」
「おもと も、故入道殿のおん甥の一人、兄とともに、明夜は、御法会ごほうえ の座にまからねばならぬ」
「い、いえ・・・・」 と、敦盛は、 じ縮むように、 「わたくしは、ご遠慮申します。よそにいてひとり御称名なと唱えておりまする」
「なぜ」
「でも。・・・・父君や、兄の経俊殿も、御列座に違いありません。勘当の子敦盛が、おゆるしもなく、そのような座へまかり出ましては」
「よいわ。この兄にまかせておけ。のう敦盛」
「よそながら、父君の影など拝して、先ごろのおわび、いたしたいと思いますものの」
「影でも見たいというおもと の心は、そのまま、父君のお心でもあろう。影と影とがよそながら会うことなら、なんの仔細しさい はあるまい。ともあれ経正の後ろに添うて明日の夜は参れ。そして、たとえ遅ればせにも、一期いちご の先陣にもれずにある乙子おとご の敦盛がよそお いと意気を、ほかの御一門へも見せてあげい。・・・・いや、見せてほしいのだ、敦盛」
と、いたわ りつつも、経正はふと、おもて を横にした。
敦盛もまたあわててまぶた へ指をあてながら、ひざの片手を下へ落とした。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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