「おうっ、兄君だ。・・・・上の兄君」 起
つやいな、敦盛は、自分の方からも駆け出していた。 「あ、兄君」 「敦盛」 寄り合うなり、弟は兄の胸に泣き、兄の手は、弟の肩を抱いていた。 ──
が、すぐ経正は、 「ばかっ」 と、体じゅうの感情を声にして、もういちど、 「ば、ばかまやつ」 と弟の肩を、突き飛ばした。 敦盛は、よろめいた身をそのまま、地にうっ伏して、処女のように、身を揉も
んだ。 「お、おしかりください。兄君、どのようにも・・・・」 「何、しかってくれと。・・・・おことは、情けない弟よの」 「はい」 「わしは、そのことを怒ったのではない。なぜ、都へ行く前に、わしに打ち明けてはくれなかったのか。それを情けなく思うのだ。この経正は、おことにとって、それほど頼りにもならず、信じられもせぬ兄だったのか」 「いえ、いえ、それも思わぬことではなかったのです。・・・・が、兄君にまで禍わざわ
いをおかしてはと」 「おなじことだ、敦盛の所業、経正は知らぬと、よそに見てもおられまいが。いやいや、今さら、どういってみたところで昨日のこと。このうえは・・・・」 と、経正もひざを折って、面をあげえないでいる弟の背をたたいた。 「いつまで、女々めめ
しい涙にかき暮れてなどいるな。御陣に遅れたことは、経正がいかようになと、お詫わ
びもし、取りつくろうて、人の嘲あざけ
りの前におことを曝さら すようなことはせぬ。このまま、父や一族に、姿を見せずに終わるこそ、人の笑い草ぞ、親への不幸ぞ。
── さ、気を取り直せ、そして経正とともに、摂津の御陣に渡ろう」 「は。・・・・はい」 「かねて、都にいたころから、おことが、右大弁うだいべん
どのの姫君と、恋仲らしい様子、ほのかには、察していた。されば先ごろ、乙子おとご
の君きみ が島脱しまぬ
けしたと、一族の嘆き騒いだおりも、経正だけは、おことが行った先を知っていたぞ。・・・・へれど、再びここへ帰らぬおことではないことも、信じていたのだ」 こう、経正は、自分一人、屋島に残ったわけを、じゅんじゅんと、語って、 「──
幸い、明日は二位ノ尼君のお船が立つ。御守護として、後陣の勢せい
に加わって参るのだ。まだ合戦の日というではなし、武者の働きはこれからぞ。さ、ともあれ、仮屋まで帰るがよい」 と、弟の腕を抱えて、ともに起った。 郎党の熊太は、敦盛の後ろにいて、ひれ伏していたが、ともに、よろばい起た
つと、経正の背を拝むように、その後ろから従つ
いて行った。涙に、踏む足もとも見えない姿なのである。 仮屋の一夜を、なお、経正と敦盛とが、どんなに、心をあたため合って語り更ふ
かしたかは、いうまでもあるまい。 明くれば、二十九日。 早朝に身をきよめ、兄弟は、お互いの髪を結び合い、髻もとどり
には、伽羅きゃら の香をたきこめた。 公家風の慣なら
いなので、歯は黒々と鉄漿かね
を染め、眉を描き、薄化粧をほどこして、小むら濃ご
の下着、緋ひ おどしの大よろい、腰に黄金こがね
の太刀、背のえびらには切斑きりふ
の矢を負い、わけて、弓の選びは自分の好みと力に適したもの。 兄の経正は、真っ黄な地色に、蝶ちょう
の紋もん を散らした直垂ひたたれ
、もえぎおどしの鎧よろい を着、ひとしく、矢は負うていたが、手には手馴れの薙刀なぎなた
を持った。そして、 「いざ、行こう」 と、敦盛や熊太とともに、仮屋の門を出た。 ── と、朝のそよ風につれて、ほのかな梅の香が、顔をなでた。 振り向くと、中ノ木戸の梅が、今朝は一きわ花の数をほころばせている。経正は、昨日、下しも
の句が出来ずにしまった歌を思い出して、 「ひとはみな、いくさにいでし、仮の屋に、梅ばかりこそ・・・・」 と、小声で朗吟ろうぎん
した。そして弟の顔を見、 「敦盛、下しも
の句はないか」 と、言った。 敦盛はすぐ、 「── 春を知るかな」 と付け、もういちど、 「梅ばかりこそ、春を知るかな」 と、くり返した。 ふもとのほうで六万寺の鐘が聞こえる、二位ノ尼の海上平安を祈祷きとう
するのでもあろうか。浦では兵船の太鼓も鳴りぬいていた。 「時おくれては ── 」 と、経正たちは、そもの山道から磯いそ
をのぞんで駆け下りて行った。 |