〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻

2013/11/15 (金)  漿 め て (二)

「おうっ、兄君だ。・・・・上の兄君」
つやいな、敦盛は、自分の方からも駆け出していた。
「あ、兄君」
「敦盛」
寄り合うなり、弟は兄の胸に泣き、兄の手は、弟の肩を抱いていた。
── が、すぐ経正は、
「ばかっ」 と、体じゅうの感情を声にして、もういちど、
「ば、ばかまやつ」
と弟の肩を、突き飛ばした。
敦盛は、よろめいた身をそのまま、地にうっ伏して、処女のように、身を んだ。
「お、おしかりください。兄君、どのようにも・・・・」
「何、しかってくれと。・・・・おことは、情けない弟よの」
「はい」
「わしは、そのことを怒ったのではない。なぜ、都へ行く前に、わしに打ち明けてはくれなかったのか。それを情けなく思うのだ。この経正は、おことにとって、それほど頼りにもならず、信じられもせぬ兄だったのか」
「いえ、いえ、それも思わぬことではなかったのです。・・・・が、兄君にまでわざわ いをおかしてはと」
「おなじことだ、敦盛の所業、経正は知らぬと、よそに見てもおられまいが。いやいや、今さら、どういってみたところで昨日のこと。このうえは・・・・」
と、経正もひざを折って、面をあげえないでいる弟の背をたたいた。
「いつまで、女々めめ しい涙にかき暮れてなどいるな。御陣に遅れたことは、経正がいかようになと、お びもし、取りつくろうて、人のあざけ りの前におことをさら すようなことはせぬ。このまま、父や一族に、姿を見せずに終わるこそ、人の笑い草ぞ、親への不幸ぞ。 ── さ、気を取り直せ、そして経正とともに、摂津の御陣に渡ろう」
「は。・・・・はい」
「かねて、都にいたころから、おことが、右大弁うだいべん どのの姫君と、恋仲らしい様子、ほのかには、察していた。されば先ごろ、乙子おとごきみ島脱しまぬ けしたと、一族の嘆き騒いだおりも、経正だけは、おことが行った先を知っていたぞ。・・・・へれど、再びここへ帰らぬおことではないことも、信じていたのだ」
こう、経正は、自分一人、屋島に残ったわけを、じゅんじゅんと、語って、
「── 幸い、明日は二位ノ尼君のお船が立つ。御守護として、後陣のせい に加わって参るのだ。まだ合戦の日というではなし、武者の働きはこれからぞ。さ、ともあれ、仮屋まで帰るがよい」
と、弟の腕を抱えて、ともに起った。
郎党の熊太は、敦盛の後ろにいて、ひれ伏していたが、ともに、よろばい つと、経正の背を拝むように、その後ろから いて行った。涙に、踏む足もとも見えない姿なのである。
仮屋の一夜を、なお、経正と敦盛とが、どんなに、心をあたため合って語り かしたかは、いうまでもあるまい。
明くれば、二十九日。
早朝に身をきよめ、兄弟は、お互いの髪を結び合い、もとどり には、伽羅きゃら の香をたきこめた。
公家風のなら いなので、歯は黒々と鉄漿かね を染め、眉を描き、薄化粧をほどこして、小むら の下着、 おどしの大よろい、腰に黄金こがね の太刀、背のえびらには切斑きりふ の矢を負い、わけて、弓の選びは自分の好みと力に適したもの。
兄の経正は、真っ黄な地色に、ちょうもん を散らした直垂ひたたれ 、もえぎおどしのよろい を着、ひとしく、矢は負うていたが、手には手馴れの薙刀なぎなた を持った。そして、
「いざ、行こう」
と、敦盛や熊太とともに、仮屋の門を出た。
── と、朝のそよ風につれて、ほのかな梅の香が、顔をなでた。
振り向くと、中ノ木戸の梅が、今朝は一きわ花の数をほころばせている。経正は、昨日、しも の句が出来ずにしまった歌を思い出して、
「ひとはみな、いくさにいでし、仮の屋に、梅ばかりこそ・・・・」
と、小声で朗吟ろうぎん した。そして弟の顔を見、
「敦盛、しも の句はないか」
と、言った。
敦盛はすぐ、
「── 春を知るかな」
と付け、もういちど、
「梅ばかりこそ、春を知るかな」
と、くり返した。
ふもとのほうで六万寺の鐘が聞こえる、二位ノ尼の海上平安を祈祷きとう するのでもあろうか。浦では兵船の太鼓も鳴りぬいていた。 「時おくれては ── 」 と、経正たちは、そもの山道からいそ をのぞんで駆け下りて行った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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