磯の船まで、わずかな道だが、二位ノ尼
(清盛の未亡人) は、輿
に乗って来た。 屋島内裏に隣する尼の新御所から、大勢の武者や、僧侶そうりょ
の供の列がつづいた。── 中納言ノ律師りっし
仲快ちゅうかいし 、法勝寺ノ能円、二位ノ僧都そうず
専親せんしん といったような人びとも、みな一門の子弟なので、僧籍の身ながら、平家と運命を共にしているのであった。 「おう。お見えなされた」 磯にも、船手の武者が、迎えていた。 供船の大将は、左馬頭行盛、淡路守清房など。 また後陣の兵船十艘の主将は、薩摩守さつまのかみ
忠度ただのり 、越中次郎兵衛えっちゅうのじろうひょうえ盛嗣もりつぐ
、侍大将の悪七兵衛景清などであった。 経正は、そこへ来て、 「弟の敦盛事、二十六日一族の船出とともに渡るところ、老父の命にて、後陣へまわされました。おん許への参陣、おゆるし願えましょうか」 と、忠度ただのり
へすかった。 薩摩守忠度は、どこか、ゆかしい風のある武人である。都落ちのさい、日ごろの和歌の師、藤原俊成ふじわらしゅんぜい
の門をたたいて、兵馬のあいだに詠よ
みためた歌草うたぐさ の一帖を託して去った
── という優しさもある人なので、 「何か仔細しさい
があることらしい」 とは、察したが、 「オオ、御舎弟の敦盛どのか、願うてもない御加勢」 と、快こころよ
く承知してくれた。 そして、経正へ向かい、 「和殿は」 と、たずねた。 経正の加わる陣場はすでに決まっていた。 能登守のとのかみ
教経のりつね や、次弟の若狭守経俊などと一手になって、大事な戦線につくことに予定されている。──
で、忠度に向かい、 「それゆえ、敦盛とは、一つ陣には加われませぬが」 と、心もとなげに言い、 「ご覧のごとく、年もゆかず、武勇のほども未熟にて、何もかも至らぬ者ゆえ、かえって、おん足手まといではございましょうが」 と、くれぐれも、頼むのだった。 忠度は、微笑を見せて、 「兄の和殿は、そういわるるが、なんの、よい武者振りよ。のう、兄君に見劣ろうか」 と、かたわらの敦盛を見て、その肩をたたいた。
そのとき、辺りの甲冑かっちゅう
の影が、一つ方角へサッザと流れ出したので、忠度たちも、武者の間を、大股おおまた
に歩み出した。 尼のおん輿が、磯の波打ち際に下ろされた。 それへ向かって、無数の武者が、片ひざをつき、片手をつかえた姿勢で、幾側にも居流れた。 「・・・・・・」 二位ノ尼は、輿を出て、大勢の者へ、目礼した。 もう六十路むそじ
をすぎている。 けれど、老いさらぼうた媼おうな
ではない。清盛との仲にたくさんな子は生んできたが、なお、老柳のしなやかさと生命のねばりが見える。美しいといっては当らないが、そこを通り過ぎた清潔さが、真っ白な全姿をなし、潮風に会って、やや寒げであった。 「時実ときざね
、おん手を・・・・」 付き添っていた平へい
大納言時忠が言うと、時忠の子、讃岐中将さぬきのちゅうじょう
時実ときざね が、 「は」 と、尼の手をとって、そろそろと、渡り板を越え、大船の屋形のうちへ、入って行った。 以下、扈従こじゅう
の女房、武者、公卿、僧侶などその一艘だけでも、四、五十人からの人びとが花と乗り込んだ。 すでに二日ほど前には、おなじこの浦から、幼い帝みかど
と、おん母の建礼門院けんれいもんいん
も船出されている。 ── が、二位どのの老体では、幾日もノ海上のただよいに耐えまいし、それにまだ、二月四日の忌日きにち
までには間もあることと、わざと遅れて、今日の船出となったものである。 二月四日は、亡な
き平相国清盛の命日。 なろうことなら、その法要の営いとな
みは、故こ 入道とはゆかりの深い福原の旧地で行いたいとは、尼を始め一門の切せつ
なる願いとするところではあるが、すでに、義経、範頼らの源氏が、北風のごとく弓矢を砥と
ぎすまして、続々、西下しつつあると、聞こえていた。 尼どのの御船につづく供船やら戦船いくさぶね
やら、数百艘の影が、屋島を離れて行ったその日の淡路は、うららかなほど静かであった。── しかし、やがて行く手の雲や風や、変りやすい二月きさらぎ
の海ともなれば、仏の供養はおろか、生ける人々の明日の姿さえ、どうであろうか。 |