〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻

2013/11/16 (土)  あま

磯の船まで、わずかな道だが、二位ノ尼 (清盛の未亡人) は、輿こし に乗って来た。
屋島内裏に隣する尼の新御所から、大勢の武者や、僧侶そうりょ の供の列がつづいた。── 中納言ノ律師りっし 仲快ちゅうかいし 、法勝寺ノ能円、二位ノ僧都そうず 専親せんしん といったような人びとも、みな一門の子弟なので、僧籍の身ながら、平家と運命を共にしているのであった。
「おう。お見えなされた」
磯にも、船手の武者が、迎えていた。
供船の大将は、左馬頭行盛、淡路守清房など。
また後陣の兵船十艘の主将は、薩摩守さつまのかみ 忠度ただのり越中次郎兵衛えっちゅうのじろうひょうえ盛嗣もりつぐ 、侍大将の悪七兵衛景清などであった。
経正は、そこへ来て、
「弟の敦盛事、二十六日一族の船出とともに渡るところ、老父の命にて、後陣へまわされました。おん許への参陣、おゆるし願えましょうか」
と、忠度ただのり へすかった。
薩摩守忠度は、どこか、ゆかしい風のある武人である。都落ちのさい、日ごろの和歌の師、藤原俊成ふじわらしゅんぜい の門をたたいて、兵馬のあいだに みためた歌草うたぐさ の一帖を託して去った ── という優しさもある人なので、 「何か仔細しさい があることらしい」 とは、察したが、
「オオ、御舎弟の敦盛どのか、願うてもない御加勢」
と、こころよ く承知してくれた。
そして、経正へ向かい、
「和殿は」
と、たずねた。
経正の加わる陣場はすでに決まっていた。
能登守のとのかみ 教経のりつね や、次弟の若狭守経俊などと一手になって、大事な戦線につくことに予定されている。── で、忠度に向かい、
「それゆえ、敦盛とは、一つ陣には加われませぬが」
と、心もとなげに言い、
「ご覧のごとく、年もゆかず、武勇のほども未熟にて、何もかも至らぬ者ゆえ、かえって、おん足手まといではございましょうが」
と、くれぐれも、頼むのだった。
忠度は、微笑を見せて、
「兄の和殿は、そういわるるが、なんの、よい武者振りよ。のう、兄君に見劣ろうか」
と、かたわらの敦盛を見て、その肩をたたいた。
そのとき、辺りの甲冑かっちゅう の影が、一つ方角へサッザと流れ出したので、忠度たちも、武者の間を、大股おおまた に歩み出した。
尼のおん輿が、磯の波打ち際に下ろされた。
それへ向かって、無数の武者が、片ひざをつき、片手をつかえた姿勢で、幾側にも居流れた。
「・・・・・・」
二位ノ尼は、輿を出て、大勢の者へ、目礼した。
もう六十路むそじ をすぎている。
けれど、老いさらぼうたおうな ではない。清盛との仲にたくさんな子は生んできたが、なお、老柳のしなやかさと生命のねばりが見える。美しいといっては当らないが、そこを通り過ぎた清潔さが、真っ白な全姿をなし、潮風に会って、やや寒げであった。
時実ときざね 、おん手を・・・・」
付き添っていたへい 大納言時忠が言うと、時忠の子、讃岐中将さぬきのちゅうじょう 時実ときざね が、
「は」
と、尼の手をとって、そろそろと、渡り板を越え、大船の屋形のうちへ、入って行った。
以下、扈従こじゅう の女房、武者、公卿、僧侶などその一艘だけでも、四、五十人からの人びとが花と乗り込んだ。
すでに二日ほど前には、おなじこの浦から、幼いみかど と、おん母の建礼門院けんれいもんいん も船出されている。
── が、二位どのの老体では、幾日もノ海上のただよいに耐えまいし、それにまだ、二月四日の忌日きにち までには間もあることと、わざと遅れて、今日の船出となったものである。
二月四日は、 き平相国清盛の命日。
なろうことなら、その法要のいとな みは、 入道とはゆかりの深い福原の旧地で行いたいとは、尼を始め一門のせつ なる願いとするところではあるが、すでに、義経、範頼らの源氏が、北風のごとく弓矢を ぎすまして、続々、西下しつつあると、聞こえていた。
尼どのの御船につづく供船やら戦船いくさぶね やら、数百艘の影が、屋島を離れて行ったその日の淡路は、うららかなほど静かであった。── しかし、やがて行く手の雲や風や、変りやすい二月きさらぎ の海ともなれば、仏の供養はおろか、生ける人々の明日の姿さえ、どうであろうか。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ