事実、ここ数ヶ月の知盛や教経たちの働きは、目ざましかった。 讃岐の国府に拠
っていた反平家勢力を一掃したのも彼らであり、伊予の河野こうの
通信みちのぶ を破り、淡路の安摩あんま
宗益むねます 、紀伊の園部そのべ
重茂しげもち 、豊後の尾形、貝田一党などを討ったのも、その水軍だった。 ために、およそ平家の水軍と見れば、瀬戸内せとうち
から紀伊、豊後水域まで、立ち向かう武族もなかった。ほとんどが今では、屋島内裏へ帰服したといってよい。 しかし、陸上の戦いでも、その不敗が、不敗の兵であるかどうか。 まして、騎馬戦に得意な東国武者を相手としては、どうだろうか。 一門の会議では、長老の経盛が、たびたび、それに触れて、人びとの深慮を深めていた、ということを、子の経正も聞いている。 経盛は、子の経正や経俊に向かってもよく
「── 水軍は源氏になく、騎馬戦は、源氏が得意とするところ。瀬田、宇治川の合戦ぶりでもわかる。── 敵の得手えて
を避け、敵の不得手に当るのが、戦略の一義と思うが、教経のりつね
や知盛とももり なんどの血気者が、なかなか肯き
かぬし、門脇かどわき 殿 (教盛)
も、子に押されて、わしの言には、耳をかさぬ」 と、なげいていた。 そこへ、敦盛あつもり
失踪しっそう の内輪事うちわごと
が起こったため、一門の席でも、経盛はもう、そうした消極策は、いえない心理になっていた。 そして、ここ旺さか
んなる屋島平家の士気は、それを把握はあく
する知盛、教経、重衡といったような三、四十歳がらみの ── 故こ
入道清盛の三男四男から、甥おい
や孫に当る年齢層の若人たちに左右され、一門の運命も、ゆだねられたかたちであった。 経正、経俊、敦盛の三兄弟も、入道清盛の甥である。それらの人びとの下風に立つものではない。 けれど、敦盛の失踪以来、その一家は、何か、戦意も士気も揚がらないもののように見えた。事実、一門の間に、冷やかな陰口もあった。 口惜しいことだ、心外なことだと、経正は恥に耐えていた。 「父のつらさは、これ以上であろうに」
と、思いやられる。 これやこれで、彼は屋島に残ったわけだが、しかしそれも彼の胸に 「弟は帰る。帰らぬような敦盛ではない」 と、人知れず、信じて疑わぬものがあればこそだった。 ──
果たして今、その弟は、柵門さくもん
の外まで帰って来たらしい。 経正は、自分の一室を起って、廊から外の方の気配を聞きすましたが、 「── たしかに、弟」 と知ると、とたんに、瞼まぶた
を熱くして、 「やはり、わしが信じていたとおりな弟だ」 と思った。そして、あんなにまで、心配をかけさせられたことも、人への恥を忍ばせられた恨みも忘れて、よろこびだけが、胸いっぱいにあふれかえった。 で、彼は思わず、その縁から伸び上って、 「敦盛、敦盛っ。・・・・いま帰ったのか」 と、大声でどなった。 |