〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻

2013/11/14 (木) おと あに た ち (二)

今朝で、もう八日も前である。
敦盛の姿が、この屋島に見えぬという騒ぎに、一つ仮屋の肉親や郎党たちは、まったく、がく然としたものだった。しかし他の一門に知られては余りに恥かしいと、極力、ひそ かにしていたのである。──が、悪いうわさほど、すぐ伝わらずにいない。
父経盛は 「・・・・不肖ふしょう乙子おとご (末子) よ」 と、憤った。けれどこの罪は親の罪でもあると、自責するらしい老いの姿には、見るにたえないものがある。
嫡男の経正は、日夜、心のうちで祈っていた。
(弟よ。どうか。父君や一族が出陣の日までに、屋島へ帰って来いよ。せめて、お船出の日までに戻らば、この兄が、なんとでもお びしてやろうほどに) ── と。
だが、それも、間に合わなかった。
老父以下、一族郎党が、こぞって、一ノ谷、生田の戦場へ立つという船出のいそ にも ── ついに敦盛は顔を見せない。
さだめし、胸の底では、さびじさと、憤怒に、たぎ られていたであろうが、経盛はもうその になっては 「不幸な乙子おとご 」 とも、 「憎い奴」 とも、口にすら出さなかった。
が、次男の若狭守わかさのかみ 経俊つねとし は、交じり気のない武将肌であったから、 「乙子おとご 乙子と、甘やかして来たのが、いけなかったのだ。見下げはてた臆病者おくびょうもの 」 と、そんな敦盛を弟に持ったことを恥じるように 「そもそも、自分らの肉親から、陣抜じんぬ けの卑怯者ひきょうもの を出しておきながら、麾下きか の将士へ向かって、命を捨てて戦えなどといえようか」 と、地だん踏んで口惜しかった。
経俊は、一手の侍大将だから、それも、もっともな言葉であった。そこで、軍紀のうえからも親としても、経盛は、言わなければならなくなった。 「・・・・やよ若狭。もう言うな、士気にさわろう。敦盛はすでに勘当した子ぞ。子とも思うておらぬものを」
そして、すぐ 「いざ こう。いざ、ともづな を解け」 と老いの声をしぼって命じた。
しかし長兄の経正は、老父の前に哀願していた。 「どうか、自分一人は、後陣にまわしていただきたい」 と、言うのである。
まだ、二陣三陣の船隊は、毎日のように屋島から続いて出る。── 経盛は、一瞬、まつげ 毛のものを、じっとこら えた。そして、不承不承に 「さらば、ぜひもない。二位ノ尼どのの御船を守護申し上げて、後より参れ」 と吐き捨てるように言った。そして屋形船のとばり へ身を隠すやいな、鎧の袖で、涙をおさえた。
── こうして、経正だけは、一人、屋島の磯に残ったのである。
── が、その日の出陣は、経盛一家の数十艘だけではない。
屋島の周囲は、どこに立っても、一望にはなしえないが、兵船の多くは、東の山と山とに抱かれた湾のふところ深く隠されていた。そこのだんうら久通くず 、丸山などの浦曲うらわ 浦曲から舳艫じくろ をつらねて、讃岐沖さぬきおき へ出、北へさしてゆく大小の兵船は、数え切れない数であった。
うしお を染むばかりなくれない の旗は、大将軍の主船以下、船列すべてに見られるが、わけても、主上の乗らせ給う楼船ろうせん とか女房船には、錦繍きんしゅうとばり が風に光り、屋形幕やかたまく は鳴りはためき、脂粉の匂いや内裏だいり 的な色彩が、惜しみなく海へ かれてゆくようだった。
また、それを守る前後のうしお には、新中納言しんちゅうなごん 知盛とももり の船、三位中将さんみちゅうじょう 重衡しげひら の船、平盛国、越中守盛俊親子の船。
わけても、昨年、水島の戦いで、木曾勢を撃破し、その後も、多くの戦功をあげてきた能登守のとのかみ 教経のりつね などは、不敗の威風を誇っているかに見える。
その教経のりつね通盛みちもり業盛なりもり などは、みな、門脇中納言かどわきちゅうなごん 教盛のりもり の息子であった。
一門が会すと、いつも 「わが子は、わが子は」 と、親の口から口癖にも言う、自慢の息子たちなのである。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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