今朝で、もう八日も前である。 敦盛の姿が、この屋島に見えぬという騒ぎに、一つ仮屋の肉親や郎党たちは、まったく、がく然としたものだった。しかし他の一門に知られては余りに恥かしいと、極力、密
かにしていたのである。──が、悪いうわさほど、すぐ伝わらずにいない。 父経盛は 「・・・・不肖ふしょう
の乙子おとご (末子)
よ」 と、憤った。けれどこの罪は親の罪でもあると、自責するらしい老いの姿には、見るにたえないものがある。 嫡男の経正は、日夜、心のうちで祈っていた。 (弟よ。どうか。父君や一族が出陣の日までに、屋島へ帰って来いよ。せめて、お船出の日までに戻らば、この兄が、なんとでもお詫わ
びしてやろうほどに) ── と。 だが、それも、間に合わなかった。 老父以下、一族郎党が、こぞって、一ノ谷、生田の戦場へ立つという船出の磯いそ
にも ── ついに敦盛は顔を見せない。 さだめし、胸の底では、さびじさと、憤怒に、沸たぎ
られていたであろうが、経盛はもうその期ご
になっては 「不幸な乙子おとご
」 とも、 「憎い奴」 とも、口にすら出さなかった。 が、次男の若狭守わかさのかみ
経俊つねとし は、交じり気のない武将肌であったから、
「乙子おとご 乙子と、甘やかして来たのが、いけなかったのだ。見下げはてた臆病者おくびょうもの
」 と、そんな敦盛を弟に持ったことを恥じるように 「そもそも、自分らの肉親から、陣抜じんぬ
けの卑怯者ひきょうもの を出しておきながら、麾下きか
の将士へ向かって、命を捨てて戦えなどといえようか」 と、地だん踏んで口惜しかった。 経俊は、一手の侍大将だから、それも、もっともな言葉であった。そこで、軍紀のうえからも親としても、経盛は、言わなければならなくなった。
「・・・・やよ若狭。もう言うな、士気にさわろう。敦盛はすでに勘当した子ぞ。子とも思うておらぬものを」 そして、すぐ 「いざ征ゆ
こう。いざ、纜ともづな を解け」
と老いの声をしぼって命じた。 しかし長兄の経正は、老父の前に哀願していた。 「どうか、自分一人は、後陣にまわしていただきたい」 と、言うのである。 まだ、二陣三陣の船隊は、毎日のように屋島から続いて出る。──
経盛は、一瞬、睫まつげ 毛のものを、じっと怺こら
えた。そして、不承不承に 「さらば、ぜひもない。二位ノ尼どのの御船を守護申し上げて、後より参れ」 と吐き捨てるように言った。そして屋形船の帳とばり
へ身を隠すやいな、鎧の袖で、涙をおさえた。 ── こうして、経正だけは、一人、屋島の磯に残ったのである。 ── が、その日の出陣は、経盛一家の数十艘だけではない。 屋島の周囲は、どこに立っても、一望にはなしえないが、兵船の多くは、東の山と山とに抱かれた湾のふところ深く隠されていた。そこの壇だん
ノ浦うら 、久通くず
、丸山などの浦曲うらわ 浦曲から舳艫じくろ
をつらねて、讃岐沖さぬきおき
へ出、北へさしてゆく大小の兵船は、数え切れない数であった。 潮うしお
を染むばかりな紅くれない の旗は、大将軍の主船以下、船列すべてに見られるが、わけても、主上の乗らせ給う楼船ろうせん
とか女房船には、錦繍きんしゅう
の帳とばり が風に光り、屋形幕やかたまく
は鳴りはためき、脂粉の匂いや内裏だいり
的な色彩が、惜しみなく海へ撒ま
かれてゆくようだった。 また、それを守る前後の潮うしお
には、新中納言しんちゅうなごん
知盛とももり の船、三位中将さんみちゅうじょう
重衡しげひら の船、平盛国、越中守盛俊親子の船。 わけても、昨年、水島の戦いで、木曾勢を撃破し、その後も、多くの戦功をあげてきた能登守のとのかみ
教経のりつね などは、不敗の威風を誇っているかに見える。 その教経のりつね
、通盛みちもり 、業盛なりもり
などは、みな、門脇中納言かどわきちゅうなごん
教盛のりもり の息子であった。 一門が会すと、いつも
「わが子は、わが子は」 と、親の口から口癖にも言う、自慢の息子たちなのである。 |